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    1: 2016/08/30(火) 13:30:39.00 ID:CAP_USER9
    関中佐の大尉時代の写真
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p1.jpg
    制帽、制服と軍刀を装着するベルト「剣帯」。剣帯の裏に関行男と記されている
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p2.jpg
    海軍兵学校、陸軍士官学校の合格通知(左上)と筆箱(右上)、海軍兵学校時代の日記。筆箱の名札に関行男と記されている
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p3.jpg
    特攻隊の鉢巻き(下)と米内海軍大臣名で記された弔意
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p4.jpg
    千人針(右)と伊曽乃神社(愛媛県西条市)などのお守り
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p5.jpg

     「神風特攻隊」の一番機として出撃し、昭和19年10月25日にレイテ沖海戦で米護衛空母「セント・ロー」に体当たりして海に散った海軍中佐、関行男=当時(23)、大尉から戦死後に昇進=の遺品約20点が、出身地に近い松山市の陸上自衛隊松山駐屯地にひっそりと展示されている。家族らに宛てた遺書(複写)や軍服、制帽、日記、筆記道具などで、「軍神」とあがめられた中佐の“素顔”と、いや応なしに戦争と向き合い命をささげざるを得なかった当時の若者の生き様を今に伝えている。

    ■海軍兵学校と陸軍士官学校にダブル合格の秀才

     同駐屯地の資料展示室には、主に松山市にあった歩兵第22連隊関係の遺品や資料が展示されており、関中佐の遺品はその一角のガラスケースの中に並べられている。

     関中佐は愛媛県西条市に生まれ、同市立大町小、旧制西条中学を経て、昭和13年12月、海軍兵学校へ進んだ。中学時代は成績優秀で、庭球部員として全国大会に出場するほどの腕前だった。

     展示室には関中佐の優秀ぶりを示す資料がある。海軍兵学校と陸軍士官学校双方の合格通知である。日付はともに昭和13年11月3日。当時、難関中の難関とされた両校にダブル合格していたのだ。

     海軍兵学校時代の「生徒休暇記録」もあった。15年8月8日から28日まで、夏休みの記録が日々つづられている。国家の行方について所感をつづった日もあれば、海水浴を楽しんだ日も。きちょうめんで細く丁寧な文字からは繊細な精神がうかがえる。

     さらに「関行男」と名前が書かれた筆箱も。中には鉛筆と赤鉛筆、そしてコンパスが1本。鉛筆の先を削ったナイフの跡が生々しい。

    ■遺書に見る家族への思い

     海軍兵学校在学中の16年、関中佐の父・勝太郎が亡くなると、母サカエは古物商をたたみ、草もちの行商人として細々と暮らした。海軍兵学校は同年卒業し、翌年、海軍少尉となる。18年に霞ヶ浦海軍航空隊入隊し、翌19年、飛行教官に就任し大尉に昇進。鎌倉市在住の渡辺満里子と結婚した。

     展示室には海軍航空隊の白い制服と帽子、剣帯も展示されている。最晩年の大尉時代、着用していたものだ。背の高い人であったことがしのばれる。同時代の肖像写真や、白い帯に赤い糸が縫い込まれた千人針もあった。

     19年10月20日、マニラで「神風特別攻撃隊」の訓示と命名式が行われ、関中佐は総指揮官に任命された。

     きちょうめんな文字で書かれた遺書には、実家の母・サカエに宛てて「幼時より御苦労ばかりおかけし、不幸の段、お許し下さいませ」とあり、妻・満里子の両親には「本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いることも出来ず征く事を、御許し下さいませ」と記していた。

    続きはソースで

    引用元: 【戦争】神風特攻第1号、「軍神」と呼ばれた男…遺品から浮かび上がる関行男の素顔と生き様★6©2ch.net

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    1: 2016/05/15(日) 23:10:50.08 ID:CAP_USER
     幕末の「禁門の変」(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の舞台となった京都御苑の「蛤御門」(京都市上京区)の名前の由来を巡り、京都産業大特別客員研究員の長谷桂さん(38)が定説を覆す資料を見つけた。これまでは宝永の大火(1708年)の際に開門された様子を、焼けて口を開けるハマグリにたとえて命名されたとの説が有力だったが、更に以前から「蛤」が使われていた可能性があるという。【宮川佐知子】

     蛤御門はもともと「新在家御門」などと呼ばれていた。開かずの門だったが、江戸時代の大火で逃げ惑う京の民を避難させるため開放されたと伝えられてきた。

    続きはソースで

    http://mainichi.jp/articles/20160515/k00/00e/040/180000c
    ダウンロード


    引用元: 【歴史】「蛤御門」名前の由来に「待った」新資料発見©2ch.net

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    1: 2016/05/13(金) 06:02:25.26 ID:CAP_USER
    2016年05月13日
    http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160512/20160512-OYTNI50042-L.jpg
    16世紀に書き写されたことがわかった神皇正統記の写本(12日、会津若松市で)

    ◆町鑑定結果 上下巻計224ページ

     只見町は12日、町内の民家で見つかった「神皇正統記じんのうしょうとうき」の写本が、1587年に書き写されたものだとの鑑定結果を発表した。書き写された年代がわかっている写本では3番目に古いという。

     神皇正統記は、南北朝時代の公家・北畠親房が14世紀、天皇家の歴史や南朝の正統性などを記した書籍。この写本は1993年3月、江戸時代に医師を務めた先祖を持つ町内の民家の蔵から発見され、町に寄贈されていた。上下巻がひとつづりになっており、計224ページ。紙は、16世紀に一般的だった方法でとじられている。

     鑑定にあたった久野俊彦・東洋大非常勤講師(日本民俗学)によると、発見された民家の菩提ぼだい寺に残された仏教書と写本の字体が酷似しており、同一人物が書いたと判断できる。仏教書を書き写したのは、京都・醍醐寺の高僧の秘書をしていた僧・祐俊で、神奈川県が保存している文書で、16世紀に実在していたことが確認できるという。

     写本の巻末には天正15年(1587年)の記載と祐俊の署名があることや、使われた紙の原料から、久野さんはこの時期に書き写されたものと判断した。

     文字と文字の間に棒状の記号が書き込まれており、漢字が音読みか訓読みかがわかるようになっている。神皇正統記の写本で、この記号が書き込まれている例はほかにないといい、当時の読み方がわかる点で貴重だという。

     写本は、僧が民衆への講話などに使っていたとみられ、和紙で作った付箋が13か所に貼られていた。久野さんは「利用方法がわかる史料は珍しい」と話している。町は今後、写本を町指定文化財に指定するという。

    http://www.yomiuri.co.jp/local/fukushima/news/20160512-OYTNT50195.html
    images


    引用元: 【歴史】神皇正統記、16世紀の写本 只見の民家で発見©2ch.net

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    1: 2016/10/24(月) 23:47:34.91 ID:CAP_USER9
    約100年間、所在不明
    http://giwiz-nor.c.yimg.jp/im_siggLi2NHGjTxkIuEg35ROL9UA---exp3h/r/iwiz-nor/ch/images/163279650791294457/origin_2.jpg

    戦国武将の真田幸村(信繁)が、義兄に宛てた自筆書簡1通の原本が見つかった。京都市内で24日に開かれた鑑定作業で真筆と確認された。

     書簡の原本は明治期に実業家岡本貞烋が入手し、1904年と14年に現在の東京大史料編纂所が写しを作成。
    内容は広く知られるが、その後約100年間、所在が分からなくなっていた。

    続きはソースで

    http://this.kiji.is/163275370999252474?c=39546741839462401 
    ダウンロード


    引用元: 【社会】真田幸村の自筆書簡原本を発見 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/08/01(月) 01:31:11.10 ID:CAP_USER9
    陣中日誌を解読した一戸会長(前列中央)ら「みやぎの近現代史を考える会」のメンバー
    http://storage.kahoku.co.jp/images/2016/07/31/20160731kho000000014000c/001_size6.jpg

     仙台市に司令部を置いた旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」の解読が、在仙の歴史研究者らによって終了した。「みやぎの近現代史を考える会」が、14年かけて取り組んだ。部隊が参戦した満州事変(1931年9月18日)の戦闘状況や、兵営の生活が記されている。旧陸軍は敗戦時に記録の処分を指示し、公的記録が残っているのは珍しい。軍の実情を知る上で貴重な資料になる。

     解読されたのは、第2師団野砲兵第2連隊第1大隊本部(約360人)の日誌。第2師団は満州事変当時、約5000人が駐屯し、主力として最前線に投入された。事変直後の9月21日から翌32年末までの日誌が残されている。

     作戦命令や関東軍司令官の訓示、兵営での慰霊祭を克明に記録。中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)から遠く離れた満州北部での作戦では「敵の銃声熾烈(しれつ)」「両翼を包囲され死傷者続出」と生々しく記されている。

     厳寒による凍傷患者は、事変全体を通じ約1800人に上ったとされる。日誌は将来への参考意見として「防寒具の整備、給養の良否、兵卒の休眠状況に配慮することが必要。

    続きはソースで

    http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160731_13024.html
    ダウンロード (2)


    引用元: 【宮城】「日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」 “満州事変” 旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」解読、軍の実情あらわ©2ch.net

    【宮城】「日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」 “満州事変” 旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」解読、軍の実情あらわの続きを読む

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