スポンサーリンク

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/06/21(火) 14:19:34.88 ID:CAP_USER9
    靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋

     靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。

     記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載されたのみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと発展している。

     徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。

    〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

    〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉

     一連の発言が波紋を呼んだのは、靖国神社創建の「原点」に関わるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。

     明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が“官軍”、敗北した幕府軍は“賊軍”とされた。

     この時、明治維新を偉業として後世に伝え、近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため、明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」と改められて現在に至る。

     それゆえに、「賊軍vs官軍ではなく、東軍vs西軍」とする発言は、靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受け止められたのだ。

     靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には、「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように、靖国神社の見解はあくまで、「明治政府軍=官軍」だ。

    続きはソースで

    ※週刊ポスト2016年7月1日号

    http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422520.html?PAGE=1#container

    ダウンロード (1)


    引用元: 【歴史】靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋★4 [無断転載禁止]©2ch.net

    靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/08/13(土) 16:42:47.38 ID:CAP_USER9
    仏の分子生物学者バートラン・ジョルダン氏は米国が広島、長崎に投下した原子爆弾による長期的後遺症は極度に誇張されたものとする結論を出した。調査結果は「ジェネティックス」誌に掲載。

    被爆者のガン罹患率は被爆していない人のそれに比較すると高いものの、著しい差はない。調査の結果、被爆者のガン罹患率は年齢、性別、また爆心地からの距離によって異なることがわかった。1958年から1998年の間では被爆者のガン罹患率は、放射能被害を受けていない一般の例に比べると10%高い。
    生き残った大多数の被爆者の吸収線量値は1グレイ以下の小さい。

    続きはソースで

    http://jp.sputniknews.com/japan/20160813/2636925.html
    ダウンロード


    引用元: 【科学】日本の原爆投下の実被害は過大視されている…被爆者の平均寿命は一般より数ヶ月短い程度=フランスの分子生物学者 ©2ch.net

    日本の原爆投下の実被害は過大視されている…被爆者の平均寿命は一般より数ヶ月短い程度=フランスの分子生物学者の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/09/22(木) 13:21:36.70 ID:CAP_USER9
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160921-00000113-mai-cul

    ◇駐日オランダ人の書簡 初確認

    徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)について、駐日オランダ人が書き残した文書がオランダ・ハーグ国立文書館で確認された。国際日本文化研究センター(日文研)=京都市西京区=が21日、発表した。追い詰められた豊臣秀頼が寝返ろうとする大名を城壁から突き落としたなどと記されており、専門家は「大坂の陣の様子がうかがえる貴重な史料だ」と話している。

    オランダ東インド会社が日本での外交・貿易活動拠点としていた「平戸オランダ商館」の書簡で、一部は既に和訳されているが、09~33年に書かれた約520点について日文研が現地の大学と共同で新たに調査していた。

    大坂の陣について書かれた文書は、豊臣家が滅亡した夏の陣の約1週間後、同社社員が長崎の平戸オランダ商館長あてに記していた。大坂城の落城直後、大坂などで大名の家臣や商人などから聞き取った情報を基にまとめたとみられる。
    「秀頼の数人の大名が、赦免が得られると考え、皇帝(徳川家康)側に寝返るために城に火を付けたが、彼らは逃げる前に秀頼によって、その場で(城壁から)落とされて死んだ。また、その火事を消すことは不可能であったため、戦う勇気を失っていた秀頼と他の大名たちは切腹し、それによって皇帝は(中略)城を奪還した。
    (中略)秀頼の家臣のうち兵士やその他の者約1万人が死んだ」などと書かれている。

    大阪城天守閣(大阪市)の跡部信・主任学芸員は「秀頼の家臣が裏切ったという記述は他の文献にもあるが、城壁から落としたという記述は見たことがない。
    外国人の目を通した客観的な記述という点でも意味がある」と評価する。
    調査にあたった日文研のフレデリック・クレインス准教授(日欧交流史)は「研究を進め、更に当時の日本の様子を明らかにしたい」と話している。    

    ◇大坂の陣 

    徳川家康が豊臣家を滅ぼした戦。豊臣秀吉ゆかりの方広寺(京都市東山区)の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が「家康」の名を分断しているなどとして、家康側は1614年11月、大坂城を包囲した(冬の陣)。しかし、豊臣側は真田信繁(幸村)らを中心に反撃し、いったんは和睦した。翌15年5月、家康が再び大坂城を攻めて落城させた(夏の陣)。秀頼と母淀殿は、この戦いで自決した。

    ◇大坂の陣までの主な出来事

    慶長 5(1600)年    関ケ原の戦いで徳川家康が勝利
    慶長 8(1603)年    家康が江戸に幕府を開く
    慶長19(1614)年 7月 方広寺鐘銘事件
               11月 徳川方が大坂城を包囲=冬の陣
               12月 和議成立
    慶長20(1615)年 4月 家康が再び出陣命令=夏の陣
                5月 大坂城陥落、秀頼と淀殿が自害

    ダウンロード (6)


    引用元: 【歴史】「大坂の陣」について記された在日オランダ人の書簡発見。豊臣秀頼が寝返った大名たちを城壁から突き落とす様子など描かれる★2 [無断転載禁止]©2ch.net

    「大坂の陣」について記された在日オランダ人の書簡発見。豊臣秀頼が寝返った大名たちを城壁から突き落とす様子など描かれるの続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/06/17(金) 12:06:17.94 ID:CAP_USER9
    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/news-image/IP160616TAN000185000.jpg
    真田信繁の書状の原本とみられる史料を紹介する玉城客員教授

    NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公で、長野県上田市ゆかりの戦国武将真田信繁(幸村)が出したとみられる書状が新たに見つかったことが16日、分かった。
    清泉女学院大(長野市)の玉城司客員教授(63)が発見し、1590(天正18)年の年号と信繁の署名がある。
    信州の歴史文書をまとめた「信濃史料」に内容が載っている書状の原本とみられる。

    玉城客員教授によると、現在伝来している信繁が出した文書は20通で、これまで原本が確認されているのは7通。
    今回見つかったのは信繁が20代前半ごろの早い段階の史料で、「信繁」と署名するのは唯一という。

    書状は、豊臣秀吉が相模国(現神奈川県)の北条氏を滅ぼした小田原攻めがあった90年の8月10日付で、「安中平三」宛て。
    絶え間なく戦い続けてきたことから安中の姓を与え、領地などを与えることを約束する内容だ。

    従来の研究では、「安中と主従関係に入った」「小田原出兵に際し関東で軍事行動をしていた」などを意味するとされている。
    真田宝物館(長野市)によると、真田家には安中作左衛門という家臣がおり、平三と同一人物かは検討を要するという。

    玉城客員教授が2015年12月ごろ、上田市の古書店で書状を見つけた。
    信繁の兄で松代藩真田家初代藩主信之(信幸)、信之の長男信吉の書状など真田家に関連する10通と共にあった。

    真田宝物館は、江戸後期に真田家の歴史を家臣がまとめた「真田家御事蹟稿(ごじせきこう)」に、今回見つかった古文書のうち、信繁書状を含む何点かが載っており、
    「これらがまとめて家臣の家に伝来したことは確実」としている。

    玉城客員教授は、一緒に伝来した書状と紙質や寸法が近く、用字や字配りなどから信繁の自筆と推論。
    相手に礼を表すため、本文に重ねる「礼紙(らいし)」も残っていることも原本と判断する一因とする。
    「書風から実直で飾らない人柄がうかがえる。信繁の人物像も含め歴史的意義を見直してもらえればありがたい」と話し、ほかの研究にも役立ててもらう考えだ。

    書状は当面、真田宝物館に預ける。
    同館は今後、開催中の真田家の史料を集めた特別企画展で展示する方針。

    ソース元:信濃毎日新聞
    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160617/KT160616FTI090018000.php

    images

    引用元: 【歴史】真田信繁が署名した唯一の「信繁」 清泉女学院大客員教授が書状の原本を発見[06/17] [無断転載禁止]©2ch.net

    真田信繁が署名した唯一の「信繁」 清泉女学院大客員教授が書状の原本を発見の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/05/15(日) 22:48:36.79 ID:CAP_USER
    「本能寺の変」黒幕は家康だった 戦国時代の不思議伝説

     戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いはず。

     タイムマシンがあったら戦国時代を見に行きたい、と思っている人も少なくないのでは? 歴史は勝者が作ったフィクションという言葉もあるくらい、戦国時代にも謎や伝説が数多く残されているのだ。

    ・「本能寺の変」で信長を◯したのは誰だ!?

     いまも日本史最大の謎と言われる「本能寺の変」。明智光秀の単独犯だったと言われているが、本当にそうだったのか。単独犯説が疑われる理由は2つある。1つは当時、最も信長が恐れていた敵は、一体誰なのか? もうひとつが、わずかな手勢でなぜ信長は本能寺に泊まったのか?

     宿敵・武田家を滅ぼした後、信長が最も恐れたのは、おそらく同盟国ながら着実に力をつけてきている徳川家康ではないか。この家康を暗◯するために、信長は家康を安土城に呼び、もてなした後、京の宿泊先・本能寺に誘う。

     わずかな手勢で泊まったのは、家康を安心させるために違いないというのだ。そして、この暗◯計画をともに考えたのが明智光秀ではないか。ところが光秀は信長に「唐入り」を命じられるのが嫌で、この計画を家康に打ち明け、信長暗◯に誘う。

     妻子を信長に◯された経験のある家康は、うすうす信長の◯意に気がついていたため、光秀の「信長暗◯」計画に乗った、つまり信長暗◯の黒幕は家康だったというのだが、真実やいかに。

    ・徳川家康には影武者がいた!?

     隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』で話題になった家康影武者説。実は、家康影武者説はかなり以前からあった。その家康影武者説には、信長が今川義元を討った「桶狭間の戦い」の後という説。天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まる直前という説。そして、豊臣一族を滅ぼした「大坂夏の陣」の最中という説。

     その中で最も可能性が高いのが、2番目の「関ヶ原の戦い直前説」である。これまで子どもたちに対して冷淡だった家康が、関ヶ原以降は生まれてきた子どもたちを溺愛するようになり、好みの女性も年増の女性から若い女性に趣味が変わっていることも、その根拠としてあげられている。

     ・真田信繁は生きていた!?

    「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌が残っているほど影武者がいたと言われる信繁。銭というのは真田の旗の六文銭のこと。つまり6人は影武者がいたということだ。

     「大坂夏の陣」では死を賭して家康の陣に向かって突撃した際も、信繁を偽った真田十勇士の1人、穴山小助が身代わりに、太刀を口にくわえて万代ガ池に飛び込んで絶命したという。大坂城を脱出した信繁は「豊臣秀頼と薩摩あるいは琉球に逃れた」と当時の東インド会社平戸商館長リチャード・コックスも日記に書き残している。

    ・豊臣秀頼の子・国松は殿様になっていた!?

     数々の生存説の中でも目を引くのが、豊臣秀頼の一子・国松である。8歳で大坂夏の陣を迎え、六条河原で斬首されたというが、異説がある。

     秀吉の正室・北政所の実兄・木下家定を頼り、豊後の国(現・大分県)、日出藩に寄遇すると、「日出藩の初代・延俊(家定の子)が二代の弟として優遇、同藩内に立石藩を起こして、羽柴姓を与えた」と、木下家は一子相伝として代々伝えている。しかも、その子孫は、江戸時代を生き延び、明治時代には子爵家となった。

    イラスト/高木一夫

    参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)

    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160515-00027179-jprime-ent

    http://amd.c.yimg.jp/amd/20160515-00027179-jprime-000-1-view.jpg
    ダウンロード (5)


    引用元: 【歴史】「本能寺の変」黒幕は家康だった?©2ch.net

    「本能寺の変」黒幕は家康だった?の続きを読む

    このページのトップヘ