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    室町時代

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    1: 2016/10/23(日) 17:39:42.49 ID:CAP_USER
    <前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161023-00000013-mai-soci
    http://amd.c.yimg.jp/amd/20161023-00000013-mai-000-2-view.jpg


     「かぶき者」で知られる戦国武将、前田慶次が晩年に住んだとの言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で行われた第2次発掘調査で、井戸跡や溝跡などが出土した。「米澤前田慶次の会」(梅津幸保会長)が22日、現地説明会で明らかにした。

     今回は慶次の武家屋敷「無苦(むく)庵」の母屋があったとみられる場所の北側約60平方メートルの区画を地表から約30センチ掘り起こした。市教委文化課の手塚孝主任は「母屋の北には庫裏(台所)や井戸があることが多い」と区画を決めた理由を話す。

     見つかった井戸跡は、長径1.7メートル、短径1.3メートル、深さ74センチで、周囲に4本の細い柱跡があった。内部から、脱穀用の木製「たたき棒」2本、箸2本が出た。その西側には長さ4.5メートルの浅い溝跡があり、周辺に馬のひづめ跡が確認されたことから、馬用の排水溝とみられる。井戸も馬用だった可能性があるという。

     このほか、土鍋片1点、手焙(あぶ)り(火鉢)片4点が見つかった。また、建物の柱跡1基も出た。出土した遺構・遺物は、地層から無苦庵の時代のものと推定されるという。

     昨年の発掘調査では、建物の柱穴約20基が見つかり、土塁や堀の工法が江戸初期のものと合致。土塁で囲まれた敷地は東西109メートル、南北72メートルの武家屋敷であると分かった。

     梅津会長は「昨年は慶次の屋敷跡という伝承地から推定地に格上げされ、今年は生活の痕跡の一部が出た。今後も発掘を続けて確定地にし、墓所も特定したい」と語る。来年は井戸跡の東側を発掘する予定で、庫裏跡などが期待できるという。

     23日午前8時半~正午、現地で一般公開する。場所は堂森586番地内。【佐藤良一】
    ダウンロード


    引用元: 【考古学】<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/04/04(月) 13:24:20.41 ID:CAP_USER*
    <関ケ原>戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載

    毎日新聞 4月4日(月)8時10分配信


    「前久書状」の一部。2行目に「青野カ原ニテノ合戦」との記述がある=陽明文庫提供

     関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?--。京都市右京区の陽明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、
    合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。

     調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所・科研費プロジェクト主催)で発表した。

     藤井教授によると、前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(1536~1612年)が記した。第二次世界大戦前に編集された「編年史料稿本」に書状の一部が収録されていたが、書状全体は公開されていなかった。「陽明文庫叢書(そうしょ)」の編集のため、書状を調査していて確認した。

     前久書状は合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した。

     藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で
    「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。

     「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、「関ケ原」の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。
    藤井教授は「情報量が豊富な今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。【岡崎英遠】

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000007-mai-soci

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    引用元: 【歴史】 ”関ケ原” 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2015/01/23(金) 21:44:28.24 ID:???0.net
     寒い季節になると「おでん」が恋しくなるが、そもそもおでんは、いつ誕生し、どのように全国に広まっていったのだろうか。
    おでん研究家・新井由己氏が解説する。

     * * *
     おでんのルーツは、室町時代に登場した串刺しの豆腐を焼いて味噌を付けた「豆腐田楽」に遡る。
    「田楽」のことを宮中の女性たちは隠語で「おでん」と呼んだ。江戸中期に醤油が醸造されるようになると、醤油味の煮込み田楽が現われた。

     その後、明治時代の東京で汁気たっぷりのおでんが登場。大正時代に関西に伝わると鰹節に昆布出汁が加わった「関東煮」(かんとだき)が生まれた。
    昭和になって東京で考案された薄味おでんは、コンビニなどでも味わえる最も定番の味付けとなっている。

     一方で、その土地ならではの特徴もきちんと受け継がれている。
    中でも地元のおでん文化を色濃く残すのが静岡で、800メートル四方におでんを出す店が250軒も並ぶ。香川でもおでんの需要は高い。
    讃岐うどん店の7割近くで、おでんが提供される。うどんを注文する前におでんを皿にとって、それを食べながらうどんを待つというスタイル。

     昆布や鰹節の出汁、醤油、味噌、塩の味付け、練り物や豆腐、野菜、魚介や肉などさまざまなタネ……。
    まさにおでんは、日本人が慣れ親しんだ味覚の集大成といえるのではないだろうか。

    ※週刊ポスト2015年1月30日号

    http://www.excite.co.jp/News/column_g/20150123/Postseven_298553.html

    引用元: 【歴史/食】おでんのルーツは室町時代の豆腐田楽 宮中女性の隠語だった

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    1: 2012/08/02(木) 23:33:22.12 ID:jA/uicaP.net
    鎌倉幕府、江戸幕府など速攻瓦解
    しかし足利さん粘る粘る。
    実は意外と堅牢な政権だった。

    引用元: 実は最強政権室町

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