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    江戸時代

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    1: 2016/12/03(土) 21:32:28.54 ID:CAP_USER9
    赤穂浪士の討ち入りの発端となった江戸城「松の廊下」の刃傷(にんじょう)事件直後の吉良上野介の様子を記した文書が京都の西本願寺で見つかり、当時の様子をうかがうことのできる貴重な史料として注目を集めています。

    見つかったのは、吉良上野介と関わりが深かった京都の西本願寺から江戸の築地御坊、現在の築地本願寺に宛てて書かれた書状の控えです。
    京都市下京区の本願寺史料研究所が西本願寺が保存している資料の中から見つけました。

    書状は、江戸城「松の廊下」で上野介が浅野内匠頭に斬りつけられた刃傷事件からおよそ3週間後の日付で、
    「吉良殿の傷が比較的浅く、ふだんどおりに食事をとっていると聞いたので、お見舞いにうかがうように」という内容が記されています。
    そのうえで、浅野内匠頭が斬りつけた理由について、「乱心した」という情報しかないのでさらに調べるよう、築地本願寺に求めています。

    本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は「西本願寺の情報収集でも、刃傷事件の詳しい理由がわからなかったということから、当時、理由が明らかにされていなかったことがうかがえる。これまで事件直後の史料はほとんど見つかっていないので大変貴重だ」と話しています。

    NHK NEWS WEB(12月3日 6時35分)
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161203/k10010793581000.html?utm_int=all_side_ranking-access_003
    images


    引用元: 【歴史】「松の廊下」直後の吉良上野介、様子を記す文書発見 京都の西本願寺で [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/10/02(日) 17:46:10.07 ID:CAP_USER9
    http://gendai.ismedia.jp/mwimgs/9/e/2000/img_9e15d633e8fc40cb6c57c0df49b42edc586571.jpg
    http://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/4/d/2000/img_4ddf35f679dd8abc7d9e60762a23a5b6259574.jpg

    一般に、江戸時代はキリスト教は禁止されていたが、明治に入って「解禁」されたというイメージが持たれている。しかし、実情は全然違ったのだ。近代日本とキリスト教の微妙な関係を、コラムニスト堀井憲一郎氏がずんずん調べる。

    ■明治政府もキリスト教を禁止していた

    明治になっても、日本ではキリスト教は厳しく禁止されていた。

    明治政府も切支丹を敵視していた。そう考えたほうがいい。

    開国して米英仏露などの異人が日本にやってきて、また宣教師も続々と入国してきた。徳川政府はもちろん、それを倒した薩長による維新政府も「切支丹は堅く御制禁」であった。

    徳川政府が倒れ明治になるとキリスト教は自由に信仰できた、という印象を持たれることがあるが、そんなことはいっさいない。

    見ようによっては、明治以降のほうが、より厳しくキリスト教は禁じられていたとも言える。

    開国以降の日本のクリスマスを細かく見ていくためには、開国以降、とくに〝明治期の日本のキリスト教状況〟を見ておかないといけない。そうしないと、クリスマスが誰に向けてどこで開かれていたか、わかりにくくなる。

    * * *

    1853年にペリー提督がやってきて、威圧的に日本を開国させた。

    もとより〝鎖国〟という状態は、日本国内にキリスト教徒をおかず、キリスト教徒である外国人を日本人と触れさせない、ということを目的に遂行された政策である(前々回参照 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49679)。

    無理やり開国させられたとしても、その政策が守られれば、徳川政府としては何とか一線を守れることになる。開国しても日本人を切支丹にしない、そこが大事なのだ。

    徳川政府はそういう方針を採った。異人のキリスト教徒がやってきて、自分たちだけのために教会を建て、自分たちだけでその宗教を祀っているのはかまわない。ただ、ぜったいに日本の宗教に干渉しないよう、取り決めている。

    キリスト教徒たる外国人が住むエリアを指定し、日本人と自由に接触しないように計らった。居留地である。

    関東では、横浜港に大きな居留地を作り(それまで何もなかった寒村であった)、東京の築地にも居留地エリアを作った。あとは、大阪、神戸、函館、長崎に限定して住まわせた。

    国内日本人に向けては、切支丹は御制禁、という施策は変わらない。

    しかしキリスト教側は布教をもくろみ、宣教師がつぎつぎとやって来る。

    長崎の浦上村の潜伏キリシタンが、大浦の教会にやってきて宣教師と接触し、その影響から仏式の葬式を拒否したことがあった。当然、社会の安寧を乱すものとして、一挙に捕縛された。浦上四番崩れと呼ばれる事件である。1867年の徳川政府最末期に起こった事件なので、最終処理は明治政府がおこなうことになった。

    明治新政府は、死罪にはしなかったが、流刑にした。多くの者が流刑先で獄死した(流刑先は、萩、津和野、福山)。

    新政権になっても、キリスト教のことは堅く禁じられていた。

    >>2-5に続く。

    2: 2016/10/02(日) 17:46:15.88 ID:CAP_USER9
    ■キリスト教国の「誤解」

    西洋諸国はこの対応を非難した。キリスト教の国とすれば、キリスト教徒を認めない国は不気味だろう。彼らはこの国にもキリスト教を広めたい。

    でも日本政府は、認めない。

    キリスト教国とは表面上の付き合いしかしたくない、ということである。

    表面上の付き合いしかしない異国人たちがキリスト教を信奉していても、日本社会が変わることはない。ただ、自国民がどんどんキリスト教徒になっていったりすると、社会が揺らぐ。人々の生活を保てなくなる。だから認めない。

    それが日本の国是である。江戸の政府が決め、明治の政府も継承した。

    しかし列強と呼ばれたキリスト教国と正面切って対立するわけにはいかないから(それができたら開国していない)彼らに強く「切支丹御制禁」を抗議されると、その禁制は徐々に後退せざるをえない。

    徳川政府は、庶民が守るべき御禁制を高札に掲げ、人の集まる場所に立てていた。明治政府もそれを継承した。

    1868年〝五箇条の御誓文〟とほぼ同時に〝五榜の掲示〟があった。

    「五倫の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」の五つである。

    反社会的行為はするな、というお達しである。高札に書かれ、辻に立てられた。

    明治新政府は、キリスト教をきちんと禁止すると内外に宣言している。江戸のむかしから住んでいる日本人から見れば当然のことである。

    ところが〝浦上四番崩れ(浦上村隠れ切支丹の史上四回目の摘発)〟の処置に対するキリスト教国列強の抗議があり、欧米視察の政府首脳の判断(キリスト教徒に対する強硬な弾圧は条約改正に悪影響を及ぼす)により、徳川政府と同じレベルの取り締まりが困難になってゆく。

    そんななか、1873年(明治6年)に高札が撤去された。つまり五榜の掲示が(5番目の掲示は2年前に廃されていたのであるが)取り除かれた。

    これにより各国公館キリスト教国はキリスト教禁止が廃されたと受け取った。

    キリスト教側の書物の多くは(いま出ている日本キリスト教史のほどんどがそうであるが)これによってキリスト教は解禁された、と書いている。

    ただ事実は違う。(以下おもに『キリスト教解禁以前 切支丹禁制高札撤去の史料論』〔鈴江栄一・著、岩田書院〕による。『潜伏キリシタン』〔大橋幸泰・著、講談社選書メチエ〕にも同様の指摘あり。)

    高札が撤去されたのは、禁令の伝達方法が変わっただけである。

    このへんの、基本的な事実は踏まえておいてほしいのだが、キリスト教側の書くものは(恣意的にか)、そのへんをほぼ徹底して無視している。

    政権が変わり、西洋風の新体制になり、新たな法律が次々と作られていく。そのとき高札で告知していたのでは間に合わない。費用も掛かりすぎる。そのため、今後は役所に掲示するなどの方法に変更した。

    そのために高札を撤去した。

    同時に「高札に掲げていた内容はすでに一般に熟知されたので、高札を取り除く」と告知した。

    そういう変化である。

    どこにも高札内容は無効になったとは言ってない。みんなもう知ってるので、いちいち繰り返さないよ、と告げている。

    キリスト教禁制は継続である。

    だから、五榜でほかに掲げられた「五倫の道」は引き続き守ってもらいたいし、「徒党強訴逃散の禁止」や「異人への暴力禁止」も引き続き守らないといけない。

    高札が撤去されたことをもってキリスト教が解禁というのなら、同時に「今後は異人へ暴力を働いても違法行為とはならない」ことになる。そんなわけがない。

    ただ、キリスト教各国公館は、高札撤去によって、キリスト教解禁だと受け取った。

    プロテスタントもカトリックもギリシャ正教もみな、日本の禁教が解かれたと沸き立ったのである。宣教師が15名必要になったので至急送られたし、と本国に打電した司教もいる。

    どう見ても早合点の誤解である。

    続きはソースで 

    文/堀井憲一郎(コラムニスト)

    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49821
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    引用元: 【歴史】徳川以来、この国の政府がキリスト教を公式に「解禁」した事実はない…明治政府の本音と、黙認した事情©2ch.net

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    1: 2016/05/15(日) 23:10:50.08 ID:CAP_USER
     幕末の「禁門の変」(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の舞台となった京都御苑の「蛤御門」(京都市上京区)の名前の由来を巡り、京都産業大特別客員研究員の長谷桂さん(38)が定説を覆す資料を見つけた。これまでは宝永の大火(1708年)の際に開門された様子を、焼けて口を開けるハマグリにたとえて命名されたとの説が有力だったが、更に以前から「蛤」が使われていた可能性があるという。【宮川佐知子】

     蛤御門はもともと「新在家御門」などと呼ばれていた。開かずの門だったが、江戸時代の大火で逃げ惑う京の民を避難させるため開放されたと伝えられてきた。

    続きはソースで

    http://mainichi.jp/articles/20160515/k00/00e/040/180000c
    ダウンロード


    引用元: 【歴史】「蛤御門」名前の由来に「待った」新資料発見©2ch.net

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    1: 2016/05/01(日) 09:54:54.35 ID:CAP_USER*
    国宝・松江城「天守雛形」の謎…国内最古説も製作年不明、現天守と異なる細部 市が本格調査へ

    http://www.sankei.com/west/news/161221/wst1612210004-n1.html
     国宝松江城天守の柱や梁(はり)などの内部構造を精巧に再現している模型「松江城天守雛形(ひながた)」。
    天守の歴史を知るための貴重な資料だとして松江市指定文化財となっているが、江戸時代・寛永期の作とされてきた従来の見解が近年揺らぐなど、謎の部分も多い。
    このため、市松江城調査研究室は今年度以降、模型の本格調査に乗り出す考えだ。

    完成後30年で改修?

     天守の模型は、大規模改修などに先立って製作されるケースが多い。
    松江城天守雛型の場合は、1638(寛永15)年に松江藩主となった松平直政に従って国入りしたお抱え大工頭が、「天守が1メートル程度傾いている」と直政に申し出て、修理を命じられた際に作ったとされている。

     この根拠となったのが、幕末に家臣が記した「藩租御事蹟(ごじせき)」という書物の記述とされる。
    「これが本当なら、1611(慶長16)年の天守完成からわずか30年ほどで、大改修の必要に迫られたことになる」と松江城調査研究室。

     だが、寛永期に天守が改修された史実は見当たらない。
    修理記録や部材の墨書などから確認できるのは、1676(延宝4)年に行われた天守付櫓(つけやぐら)の装飾「懸魚鰭(げぎょひれ)」の修復。
    その後の1700年代以降は天守がたびたび改修されたようだ。

    続きはソースで

    産経WEST:2016.5.1 09:00 
    ダウンロード (1)


    引用元: 【文化/歴史】 国宝・松江城「天守雛形」の謎 国内最古説あるも製作年不明 現天守と異なる細部 市が本格調査へ©2ch.net

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    1: 2016/03/29(火) 01:51:21.12 ID:CAP_USER*
    松山藩の初代藩主の弟、松平定実(さだざね)が、「大坂夏の陣」で大きな功績をあげたことを示す伊達政宗などからの書状が松山市で見つかり、高い歴史的価値がある資料として注目されています。

    書状は、愛媛の歴史を調べている民間団体「伊予史談会」が、去年11月から、松山市内にある松平家の分家に保管されていた資料を調べていた際にみつかりました。

    松平定実は、松山の初代藩主、松平定行の弟で、大坂夏の陣で徳川方として多くの敵兵を討つ功績をあげました。

    しかし、家康を警護するという本来の役割を果たさなかったことが問題視され、不遇な末路をたどったとされています。

    書状は、仙台藩主の伊達政宗などが定実にあてたもので、8通あり、大坂夏の陣で定実がいかに活躍したかが書かれているほか、「家康にあなたの功績を伝えてもいい」などと、苦しい立場にある定実を励ます趣旨の文章がつづられています。

    民間団体によりますと、これらの書状は大坂夏の陣からまもなくに書かれたものとみられ、定実の功績が記された資料としては最も古いものではないかということで、高い歴史的価値がある資料として注目されています。

    伊予史談会の柚山俊夫さんは「松山藩に関する資料がほとんど残っていない江戸時代はじめの時期の、著名な武将から書状が残っていたというのは、歴史的価値が高いと考えられる」と話していました。


    NHK 03月28日 18時11分
    http://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20160328/3928871.html
    ダウンロード


    引用元: 【歴史】 松平定実にあてた伊達政宗書状 「家康にあなたの功績を伝えてもいい」 松山市で見つかる [NHK] [無断転載禁止]©2ch.net

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