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    作戦

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    1: 2016/08/01(月) 01:31:11.10 ID:CAP_USER9
    陣中日誌を解読した一戸会長(前列中央)ら「みやぎの近現代史を考える会」のメンバー
    http://storage.kahoku.co.jp/images/2016/07/31/20160731kho000000014000c/001_size6.jpg

     仙台市に司令部を置いた旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」の解読が、在仙の歴史研究者らによって終了した。「みやぎの近現代史を考える会」が、14年かけて取り組んだ。部隊が参戦した満州事変(1931年9月18日)の戦闘状況や、兵営の生活が記されている。旧陸軍は敗戦時に記録の処分を指示し、公的記録が残っているのは珍しい。軍の実情を知る上で貴重な資料になる。

     解読されたのは、第2師団野砲兵第2連隊第1大隊本部(約360人)の日誌。第2師団は満州事変当時、約5000人が駐屯し、主力として最前線に投入された。事変直後の9月21日から翌32年末までの日誌が残されている。

     作戦命令や関東軍司令官の訓示、兵営での慰霊祭を克明に記録。中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)から遠く離れた満州北部での作戦では「敵の銃声熾烈(しれつ)」「両翼を包囲され死傷者続出」と生々しく記されている。

     厳寒による凍傷患者は、事変全体を通じ約1800人に上ったとされる。日誌は将来への参考意見として「防寒具の整備、給養の良否、兵卒の休眠状況に配慮することが必要。

    続きはソースで

    http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160731_13024.html
    ダウンロード (2)


    引用元: 【宮城】「日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」 “満州事変” 旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」解読、軍の実情あらわ©2ch.net

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    1: 2015/02/25(水) 18:42:12.68 ID:???*.net BE:287993214-2BP(1012)
    sssp://img.2ch.sc/ico/anime_giko03.gif
    2015.2.24 15:23

    00


     盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。
    そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。

     福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島嶼(とうしょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。

     15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。

     広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には、嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。

     黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。

    詳細、続きはソースで

                       ◇

     堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。
    しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。(敬称略)
                       ◇

    【プロフィル】堀内豊秋氏

     明治33年、熊本県生まれ。大正11年海軍兵学校卒(50期)。デンマーク体操を取り入れた堀内式海軍体操を考案。日中戦争で厦門に陸戦隊司令として駐留。
    昭和17年1月、日本初の落下傘部隊隊長として、インドネシアのセレベス島メナド奇襲降下作戦を成功させた。終戦後の23年1月、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃◯刑となった。

    http://www.sankei.com/smp/politics/news/150224/plt1502240040-s.html

    引用元: 【歴史】占領地の治安回復、堀内陸戦司令 住民が留任求め嘆願書

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    1: 2014/12/08(月) 18:00:02.30 ID:???0.net
    日米開戦の口火を切った真珠湾攻撃から八日で七十三年を迎える。
    当時の奇襲作戦を回想できる体験者は日米を通じてほとんどいなくなった。零式艦上戦闘機(零戦)の搭乗員として参加した元海軍中尉の原田要(かなめ)さん(98)=長野市=は二度と戦争を繰り返してはならないと、二十数年前から戦争体験を語り続けている。九死に一生を得た元戦闘機乗りは、集団的自衛権の行使容認に舵(かじ)を切った日本の安全保障政策に危機感を隠さない。 (宮畑譲)

     一九四一年十二月八日未明(現地時間七日朝)。ハワイ・オアフ島の真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊に、三百機を超える日本海軍の航空機が襲いかかった。
    一時間余で戦艦四隻を撃沈、他の十数隻を損傷させ、航空機数百機を破壊した。
     「戦艦を沈めた」「格納庫を爆破した」-。原田さんが乗る空母「蒼龍」に帰艦した仲間は戦果を自慢し、艦内はお祭り騒ぎ。艦隊の上空で空母を護衛していた原田さんには、手柄を立てられなかった悔しさと同時に引っ掛かりもあった。

     蒼龍の零戦の未帰還は三機。一機は空母の場所を見失って帰艦できなかった。
    艦隊は位置を知られないよう無線を封止していた。
    「艦隊を守るため一人、二人の命は簡単に捨ててしまう。大きな虫を守るため小さな虫を犠牲にする。
    人間として扱わない、戦争ほど罪深いものはない」と思ったという。

     約半年後、旧日本軍はミッドウェー海戦で大敗。蒼龍は米軍機の爆撃で撃沈し、七百人以上が戦死した。着艦する空母を失った原田さんは燃料切れで海に不時着し、漂流中を味方の駆逐艦に救助された。その四カ月後のガダルカナル島の戦いではジャングルに不時着。

    続きはソースで

    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014120802000099.html
    「戦争はゲームじゃない」 真珠湾攻撃に参加 元零戦搭乗員

    引用元: 【社会】「戦争はゲームじゃない」 真珠湾攻撃に参加元零戦搭乗員

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    1: 2011/12/13(火) 21:05:32.55 .net
    日本史上最高のいくさの天才と言えば?
    義経?信長?大村益次郎?
    やっぱ大村かなあ…

    前スレ
    日本史上最高のいくさの天才は?
    http://mimizun.com/log/2ch/history/1013954592/

    引用元: 日本史上最高のいくさの天才は?2

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    1: 2013/10/26(土) 00:13:49.76 .net
    正成「一旦京を捨てて京都を空っぽにします。
    兵糧から何から全て持ち去って、大軍の足利勢を京都に入れるのです。
    我々は足利の補給路を経って兵糧攻めにするのです。兵糧不足の足利は自ずと京都から去りましょう。
    そのタイミングで我々は京都を奪還するのです。」

    後醍醐「まさしげぇ!」


    さて、正成の案が通ってたら南朝はどうなっていたでしょうか。

    引用元: 楠木正成の作戦を容認していたら南朝は勝てたか

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