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    公家

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    1: 2016/05/15(日) 23:10:50.08 ID:CAP_USER
     幕末の「禁門の変」(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の舞台となった京都御苑の「蛤御門」(京都市上京区)の名前の由来を巡り、京都産業大特別客員研究員の長谷桂さん(38)が定説を覆す資料を見つけた。これまでは宝永の大火(1708年)の際に開門された様子を、焼けて口を開けるハマグリにたとえて命名されたとの説が有力だったが、更に以前から「蛤」が使われていた可能性があるという。【宮川佐知子】

     蛤御門はもともと「新在家御門」などと呼ばれていた。開かずの門だったが、江戸時代の大火で逃げ惑う京の民を避難させるため開放されたと伝えられてきた。

    続きはソースで

    http://mainichi.jp/articles/20160515/k00/00e/040/180000c
    ダウンロード


    引用元: 【歴史】「蛤御門」名前の由来に「待った」新資料発見©2ch.net

    【「蛤御門」名前の由来に「待った」新資料発見】の続きを読む

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    1: 2016/05/13(金) 06:02:25.26 ID:CAP_USER
    2016年05月13日
    http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160512/20160512-OYTNI50042-L.jpg
    16世紀に書き写されたことがわかった神皇正統記の写本(12日、会津若松市で)

    ◆町鑑定結果 上下巻計224ページ

     只見町は12日、町内の民家で見つかった「神皇正統記じんのうしょうとうき」の写本が、1587年に書き写されたものだとの鑑定結果を発表した。書き写された年代がわかっている写本では3番目に古いという。

     神皇正統記は、南北朝時代の公家・北畠親房が14世紀、天皇家の歴史や南朝の正統性などを記した書籍。この写本は1993年3月、江戸時代に医師を務めた先祖を持つ町内の民家の蔵から発見され、町に寄贈されていた。上下巻がひとつづりになっており、計224ページ。紙は、16世紀に一般的だった方法でとじられている。

     鑑定にあたった久野俊彦・東洋大非常勤講師(日本民俗学)によると、発見された民家の菩提ぼだい寺に残された仏教書と写本の字体が酷似しており、同一人物が書いたと判断できる。仏教書を書き写したのは、京都・醍醐寺の高僧の秘書をしていた僧・祐俊で、神奈川県が保存している文書で、16世紀に実在していたことが確認できるという。

     写本の巻末には天正15年(1587年)の記載と祐俊の署名があることや、使われた紙の原料から、久野さんはこの時期に書き写されたものと判断した。

     文字と文字の間に棒状の記号が書き込まれており、漢字が音読みか訓読みかがわかるようになっている。神皇正統記の写本で、この記号が書き込まれている例はほかにないといい、当時の読み方がわかる点で貴重だという。

     写本は、僧が民衆への講話などに使っていたとみられ、和紙で作った付箋が13か所に貼られていた。久野さんは「利用方法がわかる史料は珍しい」と話している。町は今後、写本を町指定文化財に指定するという。

    http://www.yomiuri.co.jp/local/fukushima/news/20160512-OYTNT50195.html
    images


    引用元: 【歴史】神皇正統記、16世紀の写本 只見の民家で発見©2ch.net

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    1: 2016/04/04(月) 13:24:20.41 ID:CAP_USER*
    <関ケ原>戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載

    毎日新聞 4月4日(月)8時10分配信


    「前久書状」の一部。2行目に「青野カ原ニテノ合戦」との記述がある=陽明文庫提供

     関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?--。京都市右京区の陽明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、
    合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。

     調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所・科研費プロジェクト主催)で発表した。

     藤井教授によると、前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(1536~1612年)が記した。第二次世界大戦前に編集された「編年史料稿本」に書状の一部が収録されていたが、書状全体は公開されていなかった。「陽明文庫叢書(そうしょ)」の編集のため、書状を調査していて確認した。

     前久書状は合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した。

     藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で
    「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。

     「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、「関ケ原」の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。
    藤井教授は「情報量が豊富な今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。【岡崎英遠】

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000007-mai-soci

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    引用元: 【歴史】 ”関ケ原” 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2014/02/14(金) 18:26:05.63 .net
    鎌倉時代や室町時代の直垂と折烏帽子姿がかっこいい!!
    月代そって紋付裃の江戸時代の武士なんかww

    引用元: 中世の武士ってかっこいいよな

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    1: 日本@名無史さん 2013/12/22(日) 12:18:32.58 .net
    どちらが強いか?偉いか?賢いか?
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    引用元: 【戦国】島津と毛利【維新】

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