スポンサーリンク

    大阪府

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2015/04/15(水) 22:03:07.69 ID:???*.net
    大阪府文化財センターは15日、大阪市中央区の大阪城の大手口近くから、大量の石材が出土したと発表した。

    a


    豊臣秀吉と徳川幕府がそれぞれ築いた城の石材が混在しており、徳川幕府が不要な石材を廃棄したとみられる。
    二つの時代の流れを知る上で貴重な発見だという。

     センターによると、医療施設の建設に伴う発掘調査で、「二の丸」の出入り口である大手口付近の1234平方メートルの範囲を発掘したところ、大きさ0.6~1.5メートルの石材約40個が見つかった。

     徳川幕府は秀吉が築いた大坂城を大坂夏の陣(1615年)で攻め落とし、その後に再築城した。
    見つかった石材は一緒に出土した遺物などから、1620~30年に埋められたものだとみられる。

    続きはソースで

    画像
    http://img.mainichi.jp/mainichi.jp/select/images/20150416k0000m040078000p_size7.jpg
    http://mainichi.jp/select/news/20150416k0000m040070000c.html

    引用元: 【歴史】大阪城大手口近くで大量の石材出土 秀吉と徳川両時代

    【大阪城大手口近くで大量の石材出土 秀吉と徳川両時代】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2015/02/11(水) 22:12:22.67 ID:???*.net
    国宝銅鐸、鋳型と一致 大阪・東奈良遺跡で製作か
    【産経ニュース】 2015/2/11 21:44

    no title


    昭和39年に神戸市で見つかった「桜ケ丘12号銅鐸」(弥生時代中期、国宝)と、大阪府茨木市の東奈良遺跡で出土した「第1号流水文銅鐸鋳型」(重要文化財)の大きさや形状がほぼ一致することが11日、銅鐸を所蔵する神戸市立博物館への取材で分かった。

    博物館の橋詰清孝学芸員によると、12号銅鐸のレプリカを製作、東奈良遺跡の鋳型のレプリカにはめ込むと一致した。青銅器製作の一大拠点とされる東奈良遺跡で作られた可能性があり、銅鐸の流通を解明する手掛かりとして注目されそうだ。

    12号鐸は高さ31センチ、重さ約2.6キロ。鋳型に彫られた銅鐸の型は高さ約31~32センチとほぼ同じで、本体の曲線部分なども一致した。しかし、本体と鋳型の模様は異なっており、この鋳型から12号鐸が作られた可能性は低い。橋詰学芸員は「鋳型を作る際、大きさや形にある程度の規格があり、模様だけ変えていたのではないか」と指摘する。

    12号鐸は、表面のさびなどで模様がほとんど分からなかったため、博物館が九州国立博物館と共同で3次元計測により模様の分析を進めていた。

    続きはソースで

    ソース: http://www.sankei.com/west/news/150211/wst1502110047-n1.html
    画像: http://sankei.com/images/news/150211/wst1502110047-p1.jpg
     (3次元計測で製作した、国宝「桜ケ丘12号銅鐸」のレプリカ=11日午後、神戸市)

    引用元: 【考古学】国宝「桜ケ丘12号銅鐸」、鋳型と一致...大阪・東奈良遺跡で製作か [15/02/11]

    【国宝「桜ケ丘12号銅鐸」、鋳型と一致...大阪・東奈良遺跡で製作か】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2015/02/04(水) 15:16:17.47 ID:???*.net
    大化改新の詔の「幻の単位」記す木簡 難波宮跡近くで出土
    【日本経済新聞】 2015/2/3 22:39

    yun_14973


    大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。

    日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。

    同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。

    続きはソースで

    〔共同〕
    ソース: http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG03H86_T00C15A2CR8000/

    関連ソース:
    大阪・難波宮跡に「五十戸」木簡 大化の改新後の行政単位 | 共同通信
    http://www.47news.jp/CN/201502/CN2015020301001896.html

    画像
    http://img.47news.jp/PN/201502/PN2015020301001919.-.-.CI0003.jpg

    引用元: 【考古学】大阪・難波宮跡近くで「五十戸」木簡出土、大化の改新後の行政単位 [15/02/03]

    【大阪・難波宮跡近くで「五十戸」木簡出土、大化の改新後の行政単位】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2014/10/17(金) 23:04:55.29 ID:???0.net
    知ってた? 旅行会社は大阪発祥 玉造の神社に「浪花講」記念碑設置へ 近鉄など賛同  - 産経WEST
    http://www.sankei.com/west/news/141017/wst1410170058-n1.html
    産経新聞(北村博子) 2014.10.17 18:22更新


     江戸時代、現在の旅行会社の先駆けとなった組合「浪花講(なにわこう)」があった大阪・玉造の玉造稲荷神社分社に26日、記念碑が設置される。浪花講は当時、良質な宿を旅人に斡旋(あっせん)し、各地の名物や休憩所などを紹介するガイドブックも製作するなど、現在の旅行会社の原型を確立。その後、大阪だけでなく関東などにも普及したとされる。こうした大阪発祥の“商人(あきんど)魂”を知ってほしいと、近畿日本鉄道などが記念碑の奉納を決めた。

     かつて玉造はお伊勢参りの西の玄関口としてにぎわい、玉造稲荷神社に祈願して出発していた。近くで江戸時代、綿打ちに使う唐弓(とうゆみ)の弦(つる)を販売していた商人・松屋甚四郎(じんしろう)が文化元(1804)年、後に浪花講となる「浪花組」を立ち上げた。

     甚四郎の使用人が当時、全国各地を行商しており、旅人が宿で強引な客引きやぼったくり、頼んでもいない遊女の手引きなどの被害を受けていることを知り、旅人の安全を確保する現在の旅行会社のようなサービスを思いついた。

     具体的には、組合に加盟した宿には目印となる「浪花講」の看板を掲げさせ、旅人が安心して泊まれるようにしたほか、旅人にも浪花講発行の木札(後に布製に移行)を持たせ、宿側から信用されるようにした。

     このほか、組合に加盟している各地の宿や休憩所、地域の名物などを紹介する現在のガイドブックのような「浪花講定宿帳」や「浪花講道中記」も発行。
    こうしたサービスを明治維新まで続けた。

     この史実を広くアピールしようと、お伊勢参りを題材にした落語を手がける桂文我さんが今春、記念碑の設置を呼びかけ、近鉄や、三重県伊勢市の老舗和菓子メーカー「赤福」などが賛同した。

     いまに残る浪花講の木製看板をデザインしたステンレス製プレート(縦85センチ、横36センチ)を作り、石碑(縦約120センチ、横約90センチ、奥行き約30センチ)にはめこむ。浪花講のあった玉造稲荷神社の南西約600メートルの分社に設置する予定だ。

     神社の鈴木伸廣禰宜(ねぎ)(39)は「商売人気質を受け継ぐ大阪の若者にも、温故知新の精神で起業にチャレンジしてほしい」と話している。

     石碑の除幕式は午後1時から分社で。4時から神社で落語会(有料)もあり、桂文我さんらが出演する。浪花講の看板や定宿帳なども公開される。問い合わせは神社(電話番号はソースにて)。

    画像
    http://sankei.com/images/news/141017/wst1410170058-p1.jpg
    浪花講の木製看板を手にする鈴木伸廣禰宜=大阪市中央区の玉造稲荷神社

    引用元: 【歴史/大阪】知ってた? 旅行会社は大阪発祥 玉造の神社に「浪花講」記念碑設置へ 近鉄など賛同 [10/17]

    【旅行会社は大阪発祥? 玉造の神社に「浪花講」記念碑設置へ 近鉄など賛同】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2014/08/30(土) 00:22:12.80 ID:???0.net
    http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140828/wlf14082821180021-n1.htm
    ★1の時間 2014/08/29(金) 01:13:00.71
    http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1409254670/

    作家の有栖川有栖さんと玉岡かおるさんが28日、大阪市内で開かれた関西プレスクラブの会合で、「大坂の陣から400年」をテーマに対談した。2人は「豊臣方が負けていなければ、関西からより明るい文化が築かれ、文化立国として存在感を示せたかもしれない」などと意見交換した。

     今年から来年にかけて、豊臣家が徳川家に滅ぼされた「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」から400年の節目に当たる。大阪城は夏の陣で炎上し、現在の天守閣は、昭和6年に市民らの寄付で再建された。

     対談会場の窓からは大阪城が一望でき、玉岡さんは「この城は、大阪を表すアイコン。上方の心のよりどころ」。
    有栖川さんも「壮大な滅びの風景を持っている大阪城は、城としての経験値が高くドラマがある。また、豊臣秀吉の晩年には、作家としてひかれるものがある」と語った。

     江戸時代には“天下の台所”として発展した大阪。玉岡さんは「大阪は『負けてへんで』という気持ちが常にある。
    東京一極集中の今、災害など危機管理の面からも、大阪に機能の一部を分散してもいいのでは」などと指摘した。

    引用元: 【大阪】豊臣が負けていなければ…? 「大坂の陣から400年」テーマに 有栖川有栖さんと玉岡かおるさんが対談★3

    【【大阪】豊臣が負けていなければ…? 「大坂の陣から400年」テーマに 有栖川有栖さんと玉岡かおるさんが対談】の続きを読む

    このページのトップヘ