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    戦死

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    1: 2014/11/03(月) 17:15:01.90 ID:???0.net
    太平洋戦争中、過酷な戦いで多くの戦死者を出した旧日本軍による「インパール作戦」からことしで70年となるなか、遺族が、戦死した父親の母校で行われた慰霊祭に初めて出席しました。

    慰霊祭に出席したのは、インパール作戦で当時34歳で戦死した田中重藏さんの娘、田中黎子さん(75)と柳川恭子さん(74)の姉妹です。
    「インパール作戦」は、70年前の昭和19年、旧日本軍がインド北東部の攻略を目指してイギリス軍などと戦い、過酷な戦いでインド国内だけで3万人が戦死しました。

    2人は、父親の母校の拓殖大学で毎年、戦没した卒業生などの慰霊祭が行われていることを大学からの連絡で知り、ことし初めて出席しました。
    父親が出征したとき、2人はそれぞれ1歳半と生後半年で、一緒に暮らした記憶はほとんど残っていないということです。

    ただ、出征前に家族4人で撮った写真や、戦地から送られてきた家族を気遣う数々の手紙を今も大事にしているということです。
    姉の黎子さんは「終戦の知らせを聞いたときは父が帰ってくると喜びましたが、その後、戦死していたことを知らされ、妹と2人で手をつないで泣きました。
    きょうは、手を合わせながら、幼い子どもや母親がつらい思いをする戦争は二度としてはいけないと改めて思いました」と話していました。

    NHK 11月3日 16時55分
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141103/k10015904381000.html

    引用元: 【社会】インパール作戦70年 遺族が慰霊祭に出席

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    1: 2014/11/09(日) 19:09:12.46 ID:???0.net
    人間魚雷「回天」戦死者の追悼式

     70年前の太平洋戦争末期に特攻兵器として造られた人間魚雷「回天」で戦死した搭乗員たちの追悼式が、訓練基地のあった山口県周南市の大津島で行われました。

     「回天」は、太平洋戦争末期に魚雷を改造して人が乗り込み、敵の戦艦などに体当たりした特攻兵器で、周南市によりますと、20歳前後を中心に、搭乗員や整備員など145人が命を落としました。

     回天の訓練基地の跡が残る周南市の大津島では、回天が初めて出撃した11月に毎年地元の顕影会が追悼式を行っていて、初めての出撃から70年となることしは、搭乗員の遺族などおよそ320人が参列しました。

     式では、全員で黙とうしたあと、顕彰会の原田茂会長が、「年に1度の追悼の日を、70年前の搭乗員の決意に恥じることのないよう、平和で誇りある国造りの日としたい」とあいさつしました。

     このあと、参列者が慰霊碑の前の祭壇に花を手向けて、犠牲になった搭乗員たちに祈りをささげました。

     おじを亡くした58歳の男性は、「おじは弟である私の父に『家族を守れ』と言い残して出撃していったそうです。遺族としてその思いを忘れずに伝えていきたい」と話していました。

    NHK NEWS WEB 11月9日 18時40分
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141109/k10013067851000.html

    引用元: 【社会】人間魚雷「回天」戦死者の追悼式―山口[11/09]

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    1: 2014/10/24(金) 21:43:38.84 ID:???0.net
    ■特攻の命中率 終戦直前は9機に1機の11%
    初陣戦果に「有効性」思い込んだ海軍
    初めての神風特攻隊は在フィリピンの第一航空艦隊(一航艦)司令長官、大西瀧治郎・海軍中将が編成し、海軍最後の艦隊決戦となったフィリピン・レイテ沖海戦に投入された。関行男大尉を隊長とする敷島隊計5機が1944年10月25日、米海軍の護衛空母「セントロー」(7800トン)を撃沈。他の3隻に損傷を与えた。
    初陣での破格の戦果に、海軍は戦術としての特攻の有効性を信じた。

    防衛庁防衛研修所戦史室(現在の防衛省防衛研究所戦史部)が編さんした戦史叢書によると、一連の「比島特攻作戦」で海軍は436機、陸軍は243機が出撃。成功率は約27%だったという。
    この数字は高いのか、低いのか。目標に向かって急降下しながら爆撃する「急降下爆撃」という戦術はもともと、従来の水平爆撃以上の命中率を得るために編み出された。開戦時の真珠湾攻撃で、一航艦(南雲機動部隊)の九九式艦上爆撃機は急降下爆撃で命中率58.5%を上げている。
    42年4月のインド・セイロン沖海戦では、英東洋艦隊の空母「ハーミズ」に対して命中率89%を記録。
    史上初めて空母機動部隊同士が激突した42年5月の珊瑚(さんご)海海戦で、日本軍は米空母「レキシントン」に命中率53%、米軍は空母「祥鳳(しょうほう)」に命中率32%の戦果を残している。
    そうした数字と比べて、レイテ沖海戦時の特攻成功率は特に高い数字というわけではない

    しかも特攻戦術による命中率は次第に低下していく。軍事史研究家の故・小沢郁郎氏は自著
    「つらい真実 虚構の特攻隊神話」(同成社)で、出撃機数や米海軍の被害統計などを精査。
    フィリピン戦期(1944年10月~45年1月)は23.5%だった命中率が、沖縄戦期(45年3月~終戦)は7.9%に低下していたと算出した。

    ■体当たりなんて…日本は終わり」特攻1号の関大尉
    全軍の模範となる「特攻第1号」として、海軍兵学校出身の関行男大尉は特に選抜された。
    戦死後は2階級特進し、「軍神」となった。一方で、出撃前にこう慨嘆していたという。
    「通常攻撃でも爆弾を命中させる自信がある。そんな僕に体当たりを命じるなんて、日本は終わりだ」

    ■劣勢で次々失った熟練パイロットたち
    特攻戦術が採用された背景として、熟練の航空機搭乗員の減少がある。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめとする日本機は戦果を上げる一方で、その防弾性能の低さから、損害も増加させた。
    太平洋戦争は1942年8月にガダルカナル島の戦いが始まると航空消耗戦となり、逐次投入で貴重な戦力を消尽させていった。42年10月の南太平洋海戦では出撃216機のうち、約6割の130機を失ったとされる。
    連合艦隊は翌43年4月の「い号作戦」終了後の研究会で、戦闘機の日米の実力差は開戦時には6対1とリードしていたが、同作戦では1対1くらいとほぼ並んだと判定した。戦史叢書によると、開戦時の海軍搭乗員約7000人のうち、
    44年3月時点では既に6割近く、約3900人が戦死していたという。

    ■練習機や偵察機など低性能の機体も苦し紛れ投入
    爆装した零式艦上戦闘機(ゼロ戦)により、特攻作戦は開始された。
    搭乗員は志願制を建前としたが、華々しい戦果が伝えられるとともに恒常化。あらゆる機体が投入されることになる

    沖縄戦などがあった1945年3~7月に投入された陸海軍機計1813機のうち、約3割(計536機)がそもそも実際の戦闘には向かない偵察機・練習機、旧式戦闘機などが占めた。
    もともと低速・低馬力なうえに無理に爆装したため、運動性能はさらに低下した。

    ■正規空母、戦艦、巡洋艦は一隻も撃沈できず
    米海軍、最新レーダーで特攻を無効化
    米海軍は最新の科学技術、効率的な組織運用により、特攻戦術を無効化していった。
    精神主義の日本軍は物量だけでなく、米軍の合理主義にも敗れ去った。
    特攻機の主目標は大型の正規空母(2万~4万トン級)を中心とする機動部隊。
    その外周部に、米軍は対空捜索レーダーを搭載した駆逐艦「レーダーピケット艦」による
    早期警戒網を設け、日本の攻撃隊を感知。空母の戦闘機隊で迎撃した。

    http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html


    引用元: 【戦争】航空特攻による戦死者3848人、正規空母・戦艦・巡洋艦は一隻も撃沈できず・・・無意味さを認識していた大本営★3

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