スポンサーリンク

    日本

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/10/02(日) 17:46:10.07 ID:CAP_USER9
    http://gendai.ismedia.jp/mwimgs/9/e/2000/img_9e15d633e8fc40cb6c57c0df49b42edc586571.jpg
    http://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/4/d/2000/img_4ddf35f679dd8abc7d9e60762a23a5b6259574.jpg

    一般に、江戸時代はキリスト教は禁止されていたが、明治に入って「解禁」されたというイメージが持たれている。しかし、実情は全然違ったのだ。近代日本とキリスト教の微妙な関係を、コラムニスト堀井憲一郎氏がずんずん調べる。

    ■明治政府もキリスト教を禁止していた

    明治になっても、日本ではキリスト教は厳しく禁止されていた。

    明治政府も切支丹を敵視していた。そう考えたほうがいい。

    開国して米英仏露などの異人が日本にやってきて、また宣教師も続々と入国してきた。徳川政府はもちろん、それを倒した薩長による維新政府も「切支丹は堅く御制禁」であった。

    徳川政府が倒れ明治になるとキリスト教は自由に信仰できた、という印象を持たれることがあるが、そんなことはいっさいない。

    見ようによっては、明治以降のほうが、より厳しくキリスト教は禁じられていたとも言える。

    開国以降の日本のクリスマスを細かく見ていくためには、開国以降、とくに〝明治期の日本のキリスト教状況〟を見ておかないといけない。そうしないと、クリスマスが誰に向けてどこで開かれていたか、わかりにくくなる。

    * * *

    1853年にペリー提督がやってきて、威圧的に日本を開国させた。

    もとより〝鎖国〟という状態は、日本国内にキリスト教徒をおかず、キリスト教徒である外国人を日本人と触れさせない、ということを目的に遂行された政策である(前々回参照 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49679)。

    無理やり開国させられたとしても、その政策が守られれば、徳川政府としては何とか一線を守れることになる。開国しても日本人を切支丹にしない、そこが大事なのだ。

    徳川政府はそういう方針を採った。異人のキリスト教徒がやってきて、自分たちだけのために教会を建て、自分たちだけでその宗教を祀っているのはかまわない。ただ、ぜったいに日本の宗教に干渉しないよう、取り決めている。

    キリスト教徒たる外国人が住むエリアを指定し、日本人と自由に接触しないように計らった。居留地である。

    関東では、横浜港に大きな居留地を作り(それまで何もなかった寒村であった)、東京の築地にも居留地エリアを作った。あとは、大阪、神戸、函館、長崎に限定して住まわせた。

    国内日本人に向けては、切支丹は御制禁、という施策は変わらない。

    しかしキリスト教側は布教をもくろみ、宣教師がつぎつぎとやって来る。

    長崎の浦上村の潜伏キリシタンが、大浦の教会にやってきて宣教師と接触し、その影響から仏式の葬式を拒否したことがあった。当然、社会の安寧を乱すものとして、一挙に捕縛された。浦上四番崩れと呼ばれる事件である。1867年の徳川政府最末期に起こった事件なので、最終処理は明治政府がおこなうことになった。

    明治新政府は、死罪にはしなかったが、流刑にした。多くの者が流刑先で獄死した(流刑先は、萩、津和野、福山)。

    新政権になっても、キリスト教のことは堅く禁じられていた。

    >>2-5に続く。

    2: 2016/10/02(日) 17:46:15.88 ID:CAP_USER9
    ■キリスト教国の「誤解」

    西洋諸国はこの対応を非難した。キリスト教の国とすれば、キリスト教徒を認めない国は不気味だろう。彼らはこの国にもキリスト教を広めたい。

    でも日本政府は、認めない。

    キリスト教国とは表面上の付き合いしかしたくない、ということである。

    表面上の付き合いしかしない異国人たちがキリスト教を信奉していても、日本社会が変わることはない。ただ、自国民がどんどんキリスト教徒になっていったりすると、社会が揺らぐ。人々の生活を保てなくなる。だから認めない。

    それが日本の国是である。江戸の政府が決め、明治の政府も継承した。

    しかし列強と呼ばれたキリスト教国と正面切って対立するわけにはいかないから(それができたら開国していない)彼らに強く「切支丹御制禁」を抗議されると、その禁制は徐々に後退せざるをえない。

    徳川政府は、庶民が守るべき御禁制を高札に掲げ、人の集まる場所に立てていた。明治政府もそれを継承した。

    1868年〝五箇条の御誓文〟とほぼ同時に〝五榜の掲示〟があった。

    「五倫の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」の五つである。

    反社会的行為はするな、というお達しである。高札に書かれ、辻に立てられた。

    明治新政府は、キリスト教をきちんと禁止すると内外に宣言している。江戸のむかしから住んでいる日本人から見れば当然のことである。

    ところが〝浦上四番崩れ(浦上村隠れ切支丹の史上四回目の摘発)〟の処置に対するキリスト教国列強の抗議があり、欧米視察の政府首脳の判断(キリスト教徒に対する強硬な弾圧は条約改正に悪影響を及ぼす)により、徳川政府と同じレベルの取り締まりが困難になってゆく。

    そんななか、1873年(明治6年)に高札が撤去された。つまり五榜の掲示が(5番目の掲示は2年前に廃されていたのであるが)取り除かれた。

    これにより各国公館キリスト教国はキリスト教禁止が廃されたと受け取った。

    キリスト教側の書物の多くは(いま出ている日本キリスト教史のほどんどがそうであるが)これによってキリスト教は解禁された、と書いている。

    ただ事実は違う。(以下おもに『キリスト教解禁以前 切支丹禁制高札撤去の史料論』〔鈴江栄一・著、岩田書院〕による。『潜伏キリシタン』〔大橋幸泰・著、講談社選書メチエ〕にも同様の指摘あり。)

    高札が撤去されたのは、禁令の伝達方法が変わっただけである。

    このへんの、基本的な事実は踏まえておいてほしいのだが、キリスト教側の書くものは(恣意的にか)、そのへんをほぼ徹底して無視している。

    政権が変わり、西洋風の新体制になり、新たな法律が次々と作られていく。そのとき高札で告知していたのでは間に合わない。費用も掛かりすぎる。そのため、今後は役所に掲示するなどの方法に変更した。

    そのために高札を撤去した。

    同時に「高札に掲げていた内容はすでに一般に熟知されたので、高札を取り除く」と告知した。

    そういう変化である。

    どこにも高札内容は無効になったとは言ってない。みんなもう知ってるので、いちいち繰り返さないよ、と告げている。

    キリスト教禁制は継続である。

    だから、五榜でほかに掲げられた「五倫の道」は引き続き守ってもらいたいし、「徒党強訴逃散の禁止」や「異人への暴力禁止」も引き続き守らないといけない。

    高札が撤去されたことをもってキリスト教が解禁というのなら、同時に「今後は異人へ暴力を働いても違法行為とはならない」ことになる。そんなわけがない。

    ただ、キリスト教各国公館は、高札撤去によって、キリスト教解禁だと受け取った。

    プロテスタントもカトリックもギリシャ正教もみな、日本の禁教が解かれたと沸き立ったのである。宣教師が15名必要になったので至急送られたし、と本国に打電した司教もいる。

    どう見ても早合点の誤解である。

    続きはソースで 

    文/堀井憲一郎(コラムニスト)

    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49821
    ダウンロード


    引用元: 【歴史】徳川以来、この国の政府がキリスト教を公式に「解禁」した事実はない…明治政府の本音と、黙認した事情©2ch.net

    【徳川以来、この国の政府がキリスト教を公式に「解禁」した事実はない…明治政府の本音と、黙認した事情】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/05/18(水) 21:20:05.36 ID:CAP_USER*
     日本に住み始めた当初、最も不思議だったのが宗教に関してである。

     多くの日本人と友達になったが、そのほとんどが「自分は無宗教だ」と言っているにも関わらず、ハロウィーンやクリスマスといったキリスト教の行事を楽しみ、
    正月(1月1日)には寺社へ初詣に行くことを恒例にしている人が多い。

     日本人の一生を見ても、安産、子供の成長、健康や大学合格などを祈願して神社やお寺に度々お参りする。
    一方で、結婚式は教会で行い、葬式は寺、という人が少なくない。それでもいざ「あなたの宗教は何ですか?」と聞けば、「特にないです。無宗教です」と答えるのだ。

     生まれたときからイスラーム教徒として育った自分にとって、無宗教であることも不思議であるが、それ以上に無宗教と言いながらも各宗教行事を楽しんでいるのは本当に摩訶不思議であった。
    それに少しばかり反感も感じたのである。その理由を今なら正直に言えるが、日本人が楽しむ宗教行事の中にイスラーム教の行事が含まれていないことにがっかりしたのだ。

    ●日本に来たイスラーム教徒が感じるわびしさ
     イスラーム教徒にとっての三大行事といえば、断食明け祭(※1)、犠牲祭(※2)、預言者聖誕祭(※3)である。
    この時期は親戚や友人が集まり、どの街もにぎやかになる。子供にとっても大人にとっても楽しいひと時なのだが日本では全く知られていない。
    イスラーム教徒である家族や友人が近くにいない日本在住のイスラーム教徒は、それはそれはわびしいひと時を過ごすことになるのである。

     私自身も寂しすぎるからか、冬場になると時折聞こえる焼き芋屋独特の節回しである「やーきいもぉーーやきいも」という呼び声が、アザーン(※4)に聞こえるという耳の錯聴さえ体験したものである。

     日本在住当初は、クリスマス会や正月の初詣などに誘われても、イスラーム教徒なのでと断ったりした時期もあったが、少しでも外出すれば街中が楽しそうであるから、どうしても気になってしまうのである。

     無駄な抵抗を続けていた私に、ある日、一人の日本人の友人が「いろいろな宗教行事を一緒に楽しめることが、世界の宗教摩擦を失くす一助になるんじゃないか」と言ったのである。
    目からうろこが落ちる思いであった。

    続きはソースで

    http://www.nippon.com/ja/column/g00196/  [2016.05.18]

    images (2)

    引用元: 【話題】日本人は多宗教!? 「無宗教と言いながらも各宗教行事を楽しんでいるのは本当に摩訶不思議である」★4©2ch.net

    【日本人は多宗教!? 「無宗教と言いながらも各宗教行事を楽しんでいるのは本当に摩訶不思議である」】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/08/01(月) 01:31:11.10 ID:CAP_USER9
    陣中日誌を解読した一戸会長(前列中央)ら「みやぎの近現代史を考える会」のメンバー
    http://storage.kahoku.co.jp/images/2016/07/31/20160731kho000000014000c/001_size6.jpg

     仙台市に司令部を置いた旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」の解読が、在仙の歴史研究者らによって終了した。「みやぎの近現代史を考える会」が、14年かけて取り組んだ。部隊が参戦した満州事変(1931年9月18日)の戦闘状況や、兵営の生活が記されている。旧陸軍は敗戦時に記録の処分を指示し、公的記録が残っているのは珍しい。軍の実情を知る上で貴重な資料になる。

     解読されたのは、第2師団野砲兵第2連隊第1大隊本部(約360人)の日誌。第2師団は満州事変当時、約5000人が駐屯し、主力として最前線に投入された。事変直後の9月21日から翌32年末までの日誌が残されている。

     作戦命令や関東軍司令官の訓示、兵営での慰霊祭を克明に記録。中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)から遠く離れた満州北部での作戦では「敵の銃声熾烈(しれつ)」「両翼を包囲され死傷者続出」と生々しく記されている。

     厳寒による凍傷患者は、事変全体を通じ約1800人に上ったとされる。日誌は将来への参考意見として「防寒具の整備、給養の良否、兵卒の休眠状況に配慮することが必要。

    続きはソースで

    http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160731_13024.html
    ダウンロード (2)


    引用元: 【宮城】「日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」 “満州事変” 旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」解読、軍の実情あらわ©2ch.net

    【【宮城】「日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」 “満州事変” 旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」解読、軍の実情あらわ】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2016/02/16(火) 05:55:20.97 ID:CAP_USER*
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160216-00000012-asahi-soci

    ダウンロード


    近代的日本地図の先駆者、伊能忠敬(1745~1818)が日本列島を歩いて測量した際、宿を提供したり測量を支援したりした人たちの子孫を、研究者らでつくる「伊能忠敬研究会」が探している。ホームページで
    15日から、伊能の測量日記を基にしたのべ1万2千人の人名を公開。
    没後200年にあたる2018年に、子孫の人たちに感謝状を贈呈したいという。

    「大日本沿海輿地(よち)全図」を作成した伊能忠敬は、測量の際、毎日の作業内容や沿道の人々の協力の様子などを日記に記していた。研究会は、後に清書した「伊能忠敬測量日記」(28冊)を電子化。これを基に研究会の関連ホームページ「伊能忠敬e史料館」の「伊能測量旅程・人物全覧」
    http://www.inopedia.tokyo/database/)に協力者らの人名を公開した。
    現在の市区町村別に検索できる。

    研究会の渡辺一郎名誉代表は「日記をみると測量隊の行く先々では、郷土の名誉をかけて支援しているのがわかる。先祖が江戸の国家事業に参画したという誇りを持っていただきたい」と話している。

    引用元: 【歴史】伊能忠敬に協力した人の子孫どこ?研究会が1万人余の氏名公開 [無断転載禁止]©2ch.net

    【伊能忠敬に協力した人の子孫どこ?研究会が1万人余の氏名公開】の続きを読む

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    1: 2015/05/27(水) 15:10:14.55 ID:???*.net
    台湾鉄路の関山旧駅(台東県関山鎮)前にある、日本統治時代の1940(昭和15)年に建てられた旅館「嘉賓旅社」が現在、道路拡張工事により取り壊しの危機に直面している。

    ダウンロード (2)


    家主や地元関係者などが保存を呼びかけており、鎮側は検討を行うとしている。

    先日開かれた公聴会で家主は、旅館は同地の発展の歴史を知る建物であり、何代にもわたる人々の記憶が詰まっていると述べ、「取り壊してしまったらすべてが失われ、再び戻ってくることはない」と保存を訴えた。
    また、地元民からは旅館を観光資源として再利用するべきだとの意見も出た。

    道路の拡張工事は1981年に発表されたものの、予算不足により見送られていた。

    続きはソースで

    http://www.excite.co.jp/News/world_g/20150527/Jpcna_CNA_20150527_201505270003.html

    画像
    http://s.eximg.jp/exnews/feed/Jpcna/Jpcna_CNA_20150527_201505270003_1.jpg

    引用元: 【海外】日本統治時代の旅館が取り壊しの危機…台湾の地元関係者らが保存を呼びかけ

    【日本統治時代の旅館が取り壊しの危機…台湾の地元関係者らが保存を呼びかけ】の続きを読む

    このページのトップヘ