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    日本軍

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    1: 2016/05/26(木) 12:06:50.73 ID:CAP_USER9
     旧日本海軍が世界最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊を破った1905年5月27日の日本海海戦を、福岡県宗像市の沖ノ島から見守った佐藤市五郎さん(1889~1974)の手記が故郷の大島(同市)で見つかった。佐藤さんは当時16歳で、宗像大社沖津宮の神職の下働きとして沖ノ島で生活。駐留中の通信員がガタガタ震える様子や「ヅドンヅドン」と響く砲声など、少年が目の当たりにした海戦を記録している。

    【写真】太平洋戦争後、神職になって沖ノ島に戻った頃の佐藤市五郎さん

     沖ノ島は海戦があった海域付近に位置。最も近い艦艇との距離は10キロ程度だったとされる。佐藤さんは木に登って激戦を目撃しており、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に実名で登場する。

     手記は昭和30年代に書かれたとみられ、書簡箋18枚に万年筆でしたためられている。保管していた佐藤さんの三男で大島在住の千里さん(91)が4月、同島で歴史を研究している板矢英之さん(72)に預けた。

     佐藤さんの目撃談は宗像大社の「沖津宮日誌」にも聞き取り形式で残っているが、板矢さんは「手記には、沖津宮日誌に書かれていない少年の心情がつづられている」と驚いたという。

     最初の砲声を聞いた場面は「ピカッと光が見えました。『アラッ』と思ふ瞬間に『ヅドン』と砲声が聞こえました」。海軍兵ら約20人が詰めていた望楼の記述では、ある通信員の様子を「大の男で、ガタガタ震えて居(お)ったのが印象に残って居(い)ます」と記した。

     敵艦判別用に艦影を記した紙が風に飛ばされ、佐藤さんが山に入って見つける一幕も。「誇ら顔で『あったあった』と高く振(ふり)上げて望楼長に渡した。望楼長は、金鵄(きんし)勲章だと賞(ほ)めた」。数日後の祝勝会では「市五郎君は大変加勢した。コレハ西洋の酒だ、飲むのではないナメるのだ」とウイスキーを勧められたという。

     佐藤さんは太平洋戦争後、沖ノ島の神職になった。板矢さんも少年時代、海戦の話を聞いたことがあり、独特の砲撃音の語り口から「ズローンのおいしゃん」と親しまれたという。板矢さんは手記を活字化した冊子を製作。活用法は未定だが「沖ノ島での出来事を語り伝えることが、自分たちの務めだと思う」と力を込めた。

    日本海海戦と沖ノ島
     日露戦争開戦の翌年、日本海に進入したロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎率いる旧日本海軍の連合艦隊が迎撃。2日間にわたる砲撃戦の末、連合艦隊が勝利した。当時、沖ノ島には宗像大社沖津宮の神職と雇い人、海軍兵や海底電信を維持する通信員がいた。

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160526-00010007-nishinp-soci
    ダウンロード (2)


    引用元: 【歴史】「ピカッと光が見えました」バルチック艦隊破った日本海海戦、克明な手記 沖ノ島の目撃者つづる©2ch.net

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    1: 2016/08/30(火) 13:30:39.00 ID:CAP_USER9
    関中佐の大尉時代の写真
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p1.jpg
    制帽、制服と軍刀を装着するベルト「剣帯」。剣帯の裏に関行男と記されている
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p2.jpg
    海軍兵学校、陸軍士官学校の合格通知(左上)と筆箱(右上)、海軍兵学校時代の日記。筆箱の名札に関行男と記されている
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p3.jpg
    特攻隊の鉢巻き(下)と米内海軍大臣名で記された弔意
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p4.jpg
    千人針(右)と伊曽乃神社(愛媛県西条市)などのお守り
    http://www.sankei.com/images/news/160826/wst1608260003-p5.jpg

     「神風特攻隊」の一番機として出撃し、昭和19年10月25日にレイテ沖海戦で米護衛空母「セント・ロー」に体当たりして海に散った海軍中佐、関行男=当時(23)、大尉から戦死後に昇進=の遺品約20点が、出身地に近い松山市の陸上自衛隊松山駐屯地にひっそりと展示されている。家族らに宛てた遺書(複写)や軍服、制帽、日記、筆記道具などで、「軍神」とあがめられた中佐の“素顔”と、いや応なしに戦争と向き合い命をささげざるを得なかった当時の若者の生き様を今に伝えている。

    ■海軍兵学校と陸軍士官学校にダブル合格の秀才

     同駐屯地の資料展示室には、主に松山市にあった歩兵第22連隊関係の遺品や資料が展示されており、関中佐の遺品はその一角のガラスケースの中に並べられている。

     関中佐は愛媛県西条市に生まれ、同市立大町小、旧制西条中学を経て、昭和13年12月、海軍兵学校へ進んだ。中学時代は成績優秀で、庭球部員として全国大会に出場するほどの腕前だった。

     展示室には関中佐の優秀ぶりを示す資料がある。海軍兵学校と陸軍士官学校双方の合格通知である。日付はともに昭和13年11月3日。当時、難関中の難関とされた両校にダブル合格していたのだ。

     海軍兵学校時代の「生徒休暇記録」もあった。15年8月8日から28日まで、夏休みの記録が日々つづられている。国家の行方について所感をつづった日もあれば、海水浴を楽しんだ日も。きちょうめんで細く丁寧な文字からは繊細な精神がうかがえる。

     さらに「関行男」と名前が書かれた筆箱も。中には鉛筆と赤鉛筆、そしてコンパスが1本。鉛筆の先を削ったナイフの跡が生々しい。

    ■遺書に見る家族への思い

     海軍兵学校在学中の16年、関中佐の父・勝太郎が亡くなると、母サカエは古物商をたたみ、草もちの行商人として細々と暮らした。海軍兵学校は同年卒業し、翌年、海軍少尉となる。18年に霞ヶ浦海軍航空隊入隊し、翌19年、飛行教官に就任し大尉に昇進。鎌倉市在住の渡辺満里子と結婚した。

     展示室には海軍航空隊の白い制服と帽子、剣帯も展示されている。最晩年の大尉時代、着用していたものだ。背の高い人であったことがしのばれる。同時代の肖像写真や、白い帯に赤い糸が縫い込まれた千人針もあった。

     19年10月20日、マニラで「神風特別攻撃隊」の訓示と命名式が行われ、関中佐は総指揮官に任命された。

     きちょうめんな文字で書かれた遺書には、実家の母・サカエに宛てて「幼時より御苦労ばかりおかけし、不幸の段、お許し下さいませ」とあり、妻・満里子の両親には「本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いることも出来ず征く事を、御許し下さいませ」と記していた。

    続きはソースで

    引用元: 【戦争】神風特攻第1号、「軍神」と呼ばれた男…遺品から浮かび上がる関行男の素顔と生き様★6©2ch.net

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    1: 2015/04/09(木) 10:45:40.24 ID:???*.net
    皇室:パラオ晩さん会 天皇陛下のあいさつ全文
    毎日新聞 2015年04月09日 01時39分

    戦後70年に当たる本年、皇后と共に、パラオ共和国を訪問できましたことは、誠に感慨深く、ここにレメンゲサウ大統領閣下のこの度のご招待に対し、深く感謝の意を表します。
    今夕は、私どものために晩さん会を催してくださり、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉を頂き、ありがとうございました。
    また、この訪問に合わせ、モリ・ミクロネシア連邦大統領ご夫妻、ロヤック・マーシャル諸島共和国大統領ご夫妻がここパラオ国をご訪問になり、今日、明日と続き、私どもと行動を共にしてくださることも誠にうれしく、心より感謝いたします。

    なお、この度の訪問を前にして、ミクロネシア連邦を襲った台風の被害を耳にいたしました。
    ここに犠牲になられた方々を悼み、ご遺族へのお悔やみをお伝えするとともに、被害を受けた大勢の方々に心よりお見舞い申し上げます。
    地域の復興の一日も早いことを念願しております。

    ミクロネシア地域は第一次世界大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。
    パラオには、南洋庁が設置され、多くの日本人が移住してきました。
    移住した日本人はパラオの人々と交流を深め、協力して地域の発展に力を尽くしたと聞いております。
    クニオ・ナカムラ元大統領はじめ、今日貴国で活躍しておられる方々に日本語の名を持つ方が多いことも、長く深い交流の歴史を思い起こさせるものであり、私どもに親しみを感じさせます。

    続きはソースで

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    http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20150409k0000m040143000c.html

    引用元: 【両陛下パラオご訪問】皇室:パラオ晩さん会 天皇陛下のあいさつ全文

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    1: 2015/04/06(月) 10:14:43.22 ID:???*.net
    http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/03/peleliu-island-battle_n_7000432.html
    天皇、皇后両陛下が4月9日、パラオ共和国のペリリュー島を初めて公式訪問する。

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    戦後70年を迎えて戦没者を慰霊するのが目的だ。太平洋戦争の激戦地となり、旧日本軍の守備隊約1万人が、ほぼ全滅したこの島で何が起きたのかをまとめた。
    ペリリュー島は、南北約9km、東西約3kmの小さい島だ。パラオ諸島には唯一の大型飛行機が着陸できる
    「東洋一」と言われた飛行場があった。日本はこの島を死守するために、歩兵第2連隊を含むおよそ1万人の部隊を派遣。島じゅうに洞くつ陣地を張り巡らせていた。
    1944年9月15日に上陸した3万人近いアメリカ軍との間で、壮絶な激戦となった。

    ■禁じられた玉砕
    旧日本軍はペリリュー島での無謀な突撃を禁じた。兵士らは洞窟に身を潜めて持久戦に徹したという。産経ニュースは次のように書いている。
    米軍は昭和19年9月、この島に上陸し、迎え撃った日本軍は洞窟などを拠点に2カ月以上にわたって組織的に戦った。ここで日本軍は「アッツ島の戦い」(18年5月)以後続けてきた組織的な「玉砕」を初めて禁止。
    持久戦に持ち込む戦法は日本軍の戦術上の転換点となり、約3カ月後の「硫黄島の戦い」にも引き継がれた。

    (【ZOOM】忘れられた戦争「ペリリュー島の戦い」に焦点 - 産経ニュース 2014/08/05)
    アメリカ軍は火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器を投入したが、苦戦した。当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は、2カ月半に及んだ。NHKによると、アメリカ海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれているという。

    ■死体を食べようとした兵士も
    3月29日朝刊の中日新聞によると、旧日本軍の将兵約1万人はほぼ全滅した。生存者はわずか200人程度だったという。
    アメリカ軍の死者も1600人に上る死闘だった。生き残った日本兵34人は終戦を知らずに1947年4月まで、密林に潜んでゲリラ戦を戦った。

    続きはソースで

    引用元: 【戦争】ペリリュー島で何があったのか? 天皇、皇后両陛下が訪問する「忘れられた戦場」

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    1: 2015/03/25(水) 22:11:16.03 ID:???*.net
    来月、天皇訪問のパラオ・ペリリュー島の閉鎖壕を調査 未収集2600柱の遺骨発見に期待
    【産経ニュース】 2015/3/25 19:38

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    天皇、皇后両陛下が来月、太平洋戦争の戦没者慰霊で訪問されるパラオのペリリュー島で25日、入り口がふさがれていた壕が開口され、厚生労働省の職員や遺族団体の関係者らによる遺骨収集が始まった。

    作業が始まったのは、米軍が上陸したペリリュー島南西部の海岸のすぐ近くにある「イワマツ壕」。
    作業開始にはレメンゲサウ大統領も立ち会い「遺骨が故郷に戻ることで、死者の霊が安らかに眠ることができると信じているのは、日本もパラオも同じ」と述べ、遺骨収集に積極的に協力していく姿勢を示した。

    続きはソースで

    (共同)

    ソース: http://www.sankei.com/world/news/150325/wor1503250054-n1.html
    画像: http://sankei.com/images/news/150325/wor1503250054-p2.jpg
     (厚労省の職員らが参加しパラオ・ペリリュー島のイワマツ壕周辺で始まった遺骨収集作業=25日午後(共同))


    引用元: 【国際】パラオ・ペリリュー島の閉鎖壕を調査、未収集2600柱の遺骨発見に期待 [15/03/25]

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