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    明智光秀

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    1: 2016/05/15(日) 22:48:36.79 ID:CAP_USER
    「本能寺の変」黒幕は家康だった 戦国時代の不思議伝説

     戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いはず。

     タイムマシンがあったら戦国時代を見に行きたい、と思っている人も少なくないのでは? 歴史は勝者が作ったフィクションという言葉もあるくらい、戦国時代にも謎や伝説が数多く残されているのだ。

    ・「本能寺の変」で信長を◯したのは誰だ!?

     いまも日本史最大の謎と言われる「本能寺の変」。明智光秀の単独犯だったと言われているが、本当にそうだったのか。単独犯説が疑われる理由は2つある。1つは当時、最も信長が恐れていた敵は、一体誰なのか? もうひとつが、わずかな手勢でなぜ信長は本能寺に泊まったのか?

     宿敵・武田家を滅ぼした後、信長が最も恐れたのは、おそらく同盟国ながら着実に力をつけてきている徳川家康ではないか。この家康を暗◯するために、信長は家康を安土城に呼び、もてなした後、京の宿泊先・本能寺に誘う。

     わずかな手勢で泊まったのは、家康を安心させるために違いないというのだ。そして、この暗◯計画をともに考えたのが明智光秀ではないか。ところが光秀は信長に「唐入り」を命じられるのが嫌で、この計画を家康に打ち明け、信長暗◯に誘う。

     妻子を信長に◯された経験のある家康は、うすうす信長の◯意に気がついていたため、光秀の「信長暗◯」計画に乗った、つまり信長暗◯の黒幕は家康だったというのだが、真実やいかに。

    ・徳川家康には影武者がいた!?

     隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』で話題になった家康影武者説。実は、家康影武者説はかなり以前からあった。その家康影武者説には、信長が今川義元を討った「桶狭間の戦い」の後という説。天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まる直前という説。そして、豊臣一族を滅ぼした「大坂夏の陣」の最中という説。

     その中で最も可能性が高いのが、2番目の「関ヶ原の戦い直前説」である。これまで子どもたちに対して冷淡だった家康が、関ヶ原以降は生まれてきた子どもたちを溺愛するようになり、好みの女性も年増の女性から若い女性に趣味が変わっていることも、その根拠としてあげられている。

     ・真田信繁は生きていた!?

    「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌が残っているほど影武者がいたと言われる信繁。銭というのは真田の旗の六文銭のこと。つまり6人は影武者がいたということだ。

     「大坂夏の陣」では死を賭して家康の陣に向かって突撃した際も、信繁を偽った真田十勇士の1人、穴山小助が身代わりに、太刀を口にくわえて万代ガ池に飛び込んで絶命したという。大坂城を脱出した信繁は「豊臣秀頼と薩摩あるいは琉球に逃れた」と当時の東インド会社平戸商館長リチャード・コックスも日記に書き残している。

    ・豊臣秀頼の子・国松は殿様になっていた!?

     数々の生存説の中でも目を引くのが、豊臣秀頼の一子・国松である。8歳で大坂夏の陣を迎え、六条河原で斬首されたというが、異説がある。

     秀吉の正室・北政所の実兄・木下家定を頼り、豊後の国(現・大分県)、日出藩に寄遇すると、「日出藩の初代・延俊(家定の子)が二代の弟として優遇、同藩内に立石藩を起こして、羽柴姓を与えた」と、木下家は一子相伝として代々伝えている。しかも、その子孫は、江戸時代を生き延び、明治時代には子爵家となった。

    イラスト/高木一夫

    参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)

    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160515-00027179-jprime-ent

    http://amd.c.yimg.jp/amd/20160515-00027179-jprime-000-1-view.jpg
    ダウンロード (5)


    引用元: 【歴史】「本能寺の変」黒幕は家康だった?©2ch.net

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    1: 2014/08/31(日) 06:51:06.18 ID:???0.net
    29日放送の「ゴロウ・デラックス」(TBS系)に明智光秀の子孫で作家の明智憲三郎氏が出演し、本能寺の変の「真相」を語った。

    この日、ゲストとして出演した明智氏は、もともと三菱電機でシステムエンジニアをしていたが、50年にわたり独自に本能寺の変を調べてきたという。

    明智氏は、信長を暗◯したとされる明智光秀の子孫ということで、自分を「明智」と紹介するのも「辛くて辛くてしょうがない時代」を送ったが、光秀が恨みつらみで◯した通説を「本当だろうか」と不思議に思い、真実が知りたい一心で光秀について調べつづけたのだという。

    本能寺の変については、光秀が信長の厳しい仕打ちを恨んでいたため、本能寺の警戒が薄かったことに
    つけ込んで暗◯した、とするのが現在での通説となっている。

    しかし、番組では、通説とはまったく異なる明智氏が主張する本能寺の変の「真実」が明智氏の著書「本能寺の変431年目の真実」にもとづいて紹介された。

    明智氏の主張では、信長はかねてより徳川家康を危険人物と見なしていた。そして、信長が家康を本能寺におびき寄せてから暗◯するよう、光秀に命じていたのだという。

    というのも、本能寺の変の当時、家康は本能寺に向かって上洛している最中であったとの記録が残っており、また、光秀の家臣が記した記録にも本能寺に行くのは家康を討ちに行くのかと思っていたとの記載がある。

    しかし、「イエズス会日本年報」には信長が中国を征服するという野望を持っていたとの記録がある。
    光秀が中国への侵攻を命ぜられれば、最悪の場合、明智一族が滅亡してしまうことも考えられる。
    明智氏は、光秀は中国行きとなるか、謀反を起こすかのどちらかを選ばざるをえない状況だったと指摘した。

    そして、そうした危機を感じた光秀は、信長が家康を討とうとしていることを家康本人に伝え、光秀は
    家康と信長を暗◯することで協力関係を結んだのではないかと説明した。

    またスペインの貿易商人アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」に、信長が本能寺での最後の言葉は「わしは自ら死を招いた」と書かれていることも、明智氏の説の正しさを証明しているという。つまり、自ら仕掛けた家康の暗◯計画によって信長自身が暗◯されたということだ。

    また、本能寺の変を予想していた秀吉は「中国大返し」で長距離を短時間で移動し、山崎の戦いで光秀を討っている。
    その後、秀吉は自らの正当性を主張すべく、「光秀が恨んで信長を◯した」と、本能寺の変のわずか4か月後に歴史書を書かせた。秀吉は信長を裏切った光秀を成敗した武将として、権力者の地位に収まったのだ。

    これについて、明智氏は「日本中が430年前の秀吉に騙されている」と述べた。

    明智氏の説明を受けた外山恵理アナウンサーは秀吉について「嫌なやつ」とひと言。
    ドラマ「信長のシェフ」で明智光秀役を演じている稲垣吾郎も光秀に思い入れがあるようで、終始「へえ」「はあ」と驚きを隠せない様子だった。

    なお、明智氏は10年ほど前から信長の子孫である織田家の人との付き合いがあると語っている。

    http://news.livedoor.com/article/detail/9201074/

    ★1の日時 2014/08/31(日) 00:02:24.97
    前スレ

    引用元: 【歴史】「本能寺の変」真相を明智光秀の子孫が解説 「日本中が秀吉に騙されている」 ★2

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    1: 2013/12/18(水) 19:57:52.46 .net
    燃え上がる本能寺から信長様は雑兵に化け見事、数名の家来と
    ともに安土城に帰還されました。
    その後どういう展開になっていたのでしょう

    引用元: 織田信長が本能寺を脱出していたら?

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    2: 日本@名無史さん 2012/01/14(土) 14:49:39.38 .net
    光秀や幕末の公武合体派のような中途半端な連中は必ず潰される。

    引用元: 光秀は信長よりも遥に優れた武将

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    1: 真っ赤なキャベツ ★@\(^o^)/ 2014/06/24(火) 10:44:00.29 ID:???0.net
    林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した「本能寺の変」の動機について、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと発表した。四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは「信長の四国討伐から元親を守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。

    手紙は、林原美術館が所蔵する、足利十三代将軍・足利義輝の側近「石谷(いしがい)家」の文書全3巻47点の中から見つかった。信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」と通達したが、翌年1月11日付で、明智の重臣・斎藤利三が実兄の義父で、元親の義父にもあたる石谷光政(空然)に宛てた手紙では、反発する元親をいさめるために使者を派遣することや、空然にも元親が御朱印(信長の指示)に従うように依頼する内容が記されていた。

     また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化させたことを示していた。元親が信長に「従う」と示した史料が見つかったのは初めてという。

    詳細はソースで

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140623-00000118-mai-soci

    引用元: 【歴史】本能寺の変に関する新資料…「四国攻め反対」説の裏付けになるか

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