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    海軍

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    1: 2016/09/01(木) 13:00:12.70 ID:CAP_USER9
    会見で「戦争を考えるきっかけにしてほしい」と語った沢田監督=水戸市で
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201608/images/PK2016082802100074_size0.jpg

     太平洋戦争末期、特攻機「桜花」の最初の志願者とみられ、出撃者を選ぶ立場になった元海軍大尉、宇都宮市出身の故・林富士夫さんへのインタビューによるドキュメンタリー映画の公開が始まった。昨年6月に93歳で亡くなる9年前に撮影され、現在の茨城県笠間市内にあった筑波海軍航空隊で特攻に志願した様子や、部下を送り出した苦悩などを語っている。 (宮本隆康)

     「桜花」は、機体に爆弾を積んだ全長約六メートル、幅約五メートルの小型機。大型攻撃機につるし、敵艦に近づいて空中で切り離した後、操縦かんで操作して落ちながら体当たりを試みる。近づく前に母機ごと撃墜されることが多かったとされる。

     林さんが生前に書き残した文書によると、戦争末期の一九四四年六月、筑波海軍航空隊で「桜花」の開発の是非を問う会議が開かれた。複数の志願者がいれば実施する、と上官は説明。教官を務める隊員らが意向を聞かれ、三日後に林さんら数人が志願した。

     林さんは四五年三月から約三カ月間、鹿児島県の鹿屋基地で二十三歳の分隊長に。「桜花」の操縦を指導し、出撃者を選ぶよう命じられた。真っ先に自分の名前を書いたが、却下された。ひいきと思われないよう、親友や近しい部下たちを出撃させた。

    続きはソースで

    http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201608/CK2016082802000169.html

    images


    引用元: 【戦争】「自分が志願しなければ、特攻は始まらなかった」 特攻要員選んだ苦悩を切々…元海軍大尉・林さん、記録映画で激白★3©2ch.net

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    1: 2016/05/26(木) 12:06:50.73 ID:CAP_USER9
     旧日本海軍が世界最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊を破った1905年5月27日の日本海海戦を、福岡県宗像市の沖ノ島から見守った佐藤市五郎さん(1889~1974)の手記が故郷の大島(同市)で見つかった。佐藤さんは当時16歳で、宗像大社沖津宮の神職の下働きとして沖ノ島で生活。駐留中の通信員がガタガタ震える様子や「ヅドンヅドン」と響く砲声など、少年が目の当たりにした海戦を記録している。

    【写真】太平洋戦争後、神職になって沖ノ島に戻った頃の佐藤市五郎さん

     沖ノ島は海戦があった海域付近に位置。最も近い艦艇との距離は10キロ程度だったとされる。佐藤さんは木に登って激戦を目撃しており、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に実名で登場する。

     手記は昭和30年代に書かれたとみられ、書簡箋18枚に万年筆でしたためられている。保管していた佐藤さんの三男で大島在住の千里さん(91)が4月、同島で歴史を研究している板矢英之さん(72)に預けた。

     佐藤さんの目撃談は宗像大社の「沖津宮日誌」にも聞き取り形式で残っているが、板矢さんは「手記には、沖津宮日誌に書かれていない少年の心情がつづられている」と驚いたという。

     最初の砲声を聞いた場面は「ピカッと光が見えました。『アラッ』と思ふ瞬間に『ヅドン』と砲声が聞こえました」。海軍兵ら約20人が詰めていた望楼の記述では、ある通信員の様子を「大の男で、ガタガタ震えて居(お)ったのが印象に残って居(い)ます」と記した。

     敵艦判別用に艦影を記した紙が風に飛ばされ、佐藤さんが山に入って見つける一幕も。「誇ら顔で『あったあった』と高く振(ふり)上げて望楼長に渡した。望楼長は、金鵄(きんし)勲章だと賞(ほ)めた」。数日後の祝勝会では「市五郎君は大変加勢した。コレハ西洋の酒だ、飲むのではないナメるのだ」とウイスキーを勧められたという。

     佐藤さんは太平洋戦争後、沖ノ島の神職になった。板矢さんも少年時代、海戦の話を聞いたことがあり、独特の砲撃音の語り口から「ズローンのおいしゃん」と親しまれたという。板矢さんは手記を活字化した冊子を製作。活用法は未定だが「沖ノ島での出来事を語り伝えることが、自分たちの務めだと思う」と力を込めた。

    日本海海戦と沖ノ島
     日露戦争開戦の翌年、日本海に進入したロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎率いる旧日本海軍の連合艦隊が迎撃。2日間にわたる砲撃戦の末、連合艦隊が勝利した。当時、沖ノ島には宗像大社沖津宮の神職と雇い人、海軍兵や海底電信を維持する通信員がいた。

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160526-00010007-nishinp-soci
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    引用元: 【歴史】「ピカッと光が見えました」バルチック艦隊破った日本海海戦、克明な手記 沖ノ島の目撃者つづる©2ch.net

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    1: 2015/03/14(土) 19:38:00.94 ID:???*.net
     旧日本軍の戦艦武蔵とみられる船体が、フィリピン沖の海底で見つかった。米軍に撃沈されて以来、約70年ぶりの発見に関心が高まるのとは対照的に、元乗組員の男性は「『見つかってよかった』という喜びや感激はありません」と静かに語った。武蔵にかけていた期待と、あえなく沈没した現実との落差。海底に沈む船体を見て感じるのは「結局、武蔵とは何だったのか」という思いだった。

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     衛生兵として武蔵に乗り組んでいた十勝管内中札内村の元村議山口昇さん(93)。現在、帯広市内の高齢者施設で暮らしている。
    船体を発見した米国のチームが撮影した約1分間の映像を、6日に見てもらった。

     画面を見ながら「このカタパルト(艦上から飛行機を飛び立たせる装置)は、艦の後部に備え付けられていた」「いかりは艦の前の方だった」。山口さんは淡々とした口調で説明した。

     船体発見を新聞で知った時も「ああ、やっと見つかったかと思っただけだった」という。水深約千メートルの海底で見つかったことも
    「復員後に沈没した場所の水深は、それぐらいだと知っていましたから…」。

     中札内村の開拓農家の三男で、国のために戦って死ぬのが一番の親孝行だと信じて疑わない「真面目な軍国少年」だった。

     1942年(昭和17年)5月に海軍に入り、陸上勤務が続いた。武蔵に配属になったのは44年2月。「早く戦地に行きたいと思っていた のに陸上勤務が続いて焦りがあった。世界最大最強と言われた武蔵に配属が決まった時はうれしくて、誇らしかった」。横須賀(神奈川)で初めてその船体を見た。「巨大な鉄の塊で、これが船かと驚いた。簡単には沈むはずがないと思っていた」

    続きはソースで

    http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/597983.html

    画像
    http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/image/7378_1.jpg

    引用元: 【歴史】「戦艦武蔵発見」、浮かぶ戦友の顔…元乗組員・山口さん、「『最強』の誇りとは、戦艦武蔵とは、結局何だったのか」

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    1: 2014/12/28(日) 15:55:59.46 ID:???0.net
    空前のミリタリーブームを追い風に、戦前東洋一の規模を誇る軍港のあった広島・呉の街が活気づいている。
    海事歴史科学館「大和ミュージアム」などの観光施設に多くの若者らが詰めかけているのだ。

    そんな中、新たに注目を集めているのが、呉港を望む丘にひっそりと建つ「大和(やまと)神社」(呉市宮原)。
    地元企業の社内神社なのだが、呉で建造された「戦艦大和」に同名の艦上神社があったことから、ネット上で同戦艦にちなむ神社と誤解され、“巡礼”するファンが絶えないという。

    大和神社は、呉市中心部から南の海沿いにある小さな神社だ。
    総合重機大手、IHI(東京都)呉総合事業所の「社内神社」で、戦艦大和とは何の関係もない。

    ところが、この神社が「艦隊これくしょん(艦これ)」(角川ゲームス)というオンラインゲームの人気をきっかけにミリタリーファンの注目を集めるようになった。

    ゲームは、旧日本海軍の艦船を擬人化した美少女キャラクターを使い、敵と戦うという内容。
    キャラクターは「艦娘(かんむす)」、プレーヤーは「提督(ていとく)」と呼ばれ、「艦これ」を機に軍事や軍艦に興味を持ち始めた若者が増えたといわれる。

    また「艦これ聖地巡礼」と呼び、旧海軍ゆかりの地を訪ねることも流行。
    “軍艦の街”にある大和神社が、そんな経緯で注目されるようになった。

    旧海軍呉工廠が建造した史上最大の戦艦大和に、奈良県天理市の「大和(おおやまと)神社」
    から分霊された艦上神社があったことはよく知られている。このためネット上では、呉の大和神社が奈良の大和神社から分霊した神社であるという「噂」が流れた。

    続きはソースで

    http://www.sankei.com/west/news/141228/wst1412280009-n1.html

    画像
    http://www.sankei.com/images/news/141228/wst1412280009-p3.jpg
    http://www.sankei.com/images/news/141228/wst1412280009-p2.jpg
    http://www.sankei.com/images/news/141228/wst1412280009-p1.jpg
    http://www.sankei.com/images/news/141228/wst1412280009-p4.jpg
    艦これ「大和」
    http://wikiwiki.jp/kancolle/?plugin=ref&page=%C2%E7%CF%C2%B2%FE&src=136-%C2%E7%CF%C2%B2%FE.jpg

    引用元: 【社会】「戦艦大和」由来の神社!?誤解が生んだ呉の「大和神社」人気…軍事、『艦これ』ファン殺到し今や“聖地”に

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    1: 2014/11/05(水) 20:57:29.63 ID:???0.net
     旧日本海軍の主力戦闘機だった零戦が保管されていた米国から“里帰り”し、神奈川県綾瀬市の物流会社倉庫で5日、報道陣に公開された。

     公開されたのは「零式艦上戦闘機22型」(全長約10メートル、主翼約12メートル)。
    所有する米国法人・ゼロエンタープライズによると、1943年頃の製造とみられ、70年代後半にパプアニューギニアの密林で骨組みとエンジン部分が残った状態で見つかり、約10年かけて復元された。

     同社の石塚政秀社長(53)が2009年、約3億5000万円で購入し、米アラスカ州の博物館で保管されていた。石塚社長は「世界で5機現存するとされる飛行可能な零戦のうちの1機」と話している。

     輸送のため分解された機体は21~24日、さいたまスーパーアリーナ(さいたま市中央区)で一般公開する
    予定。石塚社長は「来年は戦後70年。若い世代に近代日本が歩んだ歴史を見つめ直してほしい」と話し、国内で飛行させることも検討しているという。

    2014年11月05日 20時35分
    http://www.yomiuri.co.jp/national/20141105-OYT1T50183.html

    引用元: 【社会】飛行可能な零戦、米から里帰り…21日から公開

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