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    真田幸村

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    1: 2016/10/24(月) 23:47:34.91 ID:CAP_USER9
    約100年間、所在不明
    http://giwiz-nor.c.yimg.jp/im_siggLi2NHGjTxkIuEg35ROL9UA---exp3h/r/iwiz-nor/ch/images/163279650791294457/origin_2.jpg

    戦国武将の真田幸村(信繁)が、義兄に宛てた自筆書簡1通の原本が見つかった。京都市内で24日に開かれた鑑定作業で真筆と確認された。

     書簡の原本は明治期に実業家岡本貞烋が入手し、1904年と14年に現在の東京大史料編纂所が写しを作成。
    内容は広く知られるが、その後約100年間、所在が分からなくなっていた。

    続きはソースで

    http://this.kiji.is/163275370999252474?c=39546741839462401 
    ダウンロード


    引用元: 【社会】真田幸村の自筆書簡原本を発見 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/06/17(金) 12:06:17.94 ID:CAP_USER9
    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/news-image/IP160616TAN000185000.jpg
    真田信繁の書状の原本とみられる史料を紹介する玉城客員教授

    NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公で、長野県上田市ゆかりの戦国武将真田信繁(幸村)が出したとみられる書状が新たに見つかったことが16日、分かった。
    清泉女学院大(長野市)の玉城司客員教授(63)が発見し、1590(天正18)年の年号と信繁の署名がある。
    信州の歴史文書をまとめた「信濃史料」に内容が載っている書状の原本とみられる。

    玉城客員教授によると、現在伝来している信繁が出した文書は20通で、これまで原本が確認されているのは7通。
    今回見つかったのは信繁が20代前半ごろの早い段階の史料で、「信繁」と署名するのは唯一という。

    書状は、豊臣秀吉が相模国(現神奈川県)の北条氏を滅ぼした小田原攻めがあった90年の8月10日付で、「安中平三」宛て。
    絶え間なく戦い続けてきたことから安中の姓を与え、領地などを与えることを約束する内容だ。

    従来の研究では、「安中と主従関係に入った」「小田原出兵に際し関東で軍事行動をしていた」などを意味するとされている。
    真田宝物館(長野市)によると、真田家には安中作左衛門という家臣がおり、平三と同一人物かは検討を要するという。

    玉城客員教授が2015年12月ごろ、上田市の古書店で書状を見つけた。
    信繁の兄で松代藩真田家初代藩主信之(信幸)、信之の長男信吉の書状など真田家に関連する10通と共にあった。

    真田宝物館は、江戸後期に真田家の歴史を家臣がまとめた「真田家御事蹟稿(ごじせきこう)」に、今回見つかった古文書のうち、信繁書状を含む何点かが載っており、
    「これらがまとめて家臣の家に伝来したことは確実」としている。

    玉城客員教授は、一緒に伝来した書状と紙質や寸法が近く、用字や字配りなどから信繁の自筆と推論。
    相手に礼を表すため、本文に重ねる「礼紙(らいし)」も残っていることも原本と判断する一因とする。
    「書風から実直で飾らない人柄がうかがえる。信繁の人物像も含め歴史的意義を見直してもらえればありがたい」と話し、ほかの研究にも役立ててもらう考えだ。

    書状は当面、真田宝物館に預ける。
    同館は今後、開催中の真田家の史料を集めた特別企画展で展示する方針。

    ソース元:信濃毎日新聞
    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160617/KT160616FTI090018000.php

    images

    引用元: 【歴史】真田信繁が署名した唯一の「信繁」 清泉女学院大客員教授が書状の原本を発見[06/17] [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/05/15(日) 22:48:36.79 ID:CAP_USER
    「本能寺の変」黒幕は家康だった 戦国時代の不思議伝説

     戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いはず。

     タイムマシンがあったら戦国時代を見に行きたい、と思っている人も少なくないのでは? 歴史は勝者が作ったフィクションという言葉もあるくらい、戦国時代にも謎や伝説が数多く残されているのだ。

    ・「本能寺の変」で信長を◯したのは誰だ!?

     いまも日本史最大の謎と言われる「本能寺の変」。明智光秀の単独犯だったと言われているが、本当にそうだったのか。単独犯説が疑われる理由は2つある。1つは当時、最も信長が恐れていた敵は、一体誰なのか? もうひとつが、わずかな手勢でなぜ信長は本能寺に泊まったのか?

     宿敵・武田家を滅ぼした後、信長が最も恐れたのは、おそらく同盟国ながら着実に力をつけてきている徳川家康ではないか。この家康を暗◯するために、信長は家康を安土城に呼び、もてなした後、京の宿泊先・本能寺に誘う。

     わずかな手勢で泊まったのは、家康を安心させるために違いないというのだ。そして、この暗◯計画をともに考えたのが明智光秀ではないか。ところが光秀は信長に「唐入り」を命じられるのが嫌で、この計画を家康に打ち明け、信長暗◯に誘う。

     妻子を信長に◯された経験のある家康は、うすうす信長の◯意に気がついていたため、光秀の「信長暗◯」計画に乗った、つまり信長暗◯の黒幕は家康だったというのだが、真実やいかに。

    ・徳川家康には影武者がいた!?

     隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』で話題になった家康影武者説。実は、家康影武者説はかなり以前からあった。その家康影武者説には、信長が今川義元を討った「桶狭間の戦い」の後という説。天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まる直前という説。そして、豊臣一族を滅ぼした「大坂夏の陣」の最中という説。

     その中で最も可能性が高いのが、2番目の「関ヶ原の戦い直前説」である。これまで子どもたちに対して冷淡だった家康が、関ヶ原以降は生まれてきた子どもたちを溺愛するようになり、好みの女性も年増の女性から若い女性に趣味が変わっていることも、その根拠としてあげられている。

     ・真田信繁は生きていた!?

    「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌が残っているほど影武者がいたと言われる信繁。銭というのは真田の旗の六文銭のこと。つまり6人は影武者がいたということだ。

     「大坂夏の陣」では死を賭して家康の陣に向かって突撃した際も、信繁を偽った真田十勇士の1人、穴山小助が身代わりに、太刀を口にくわえて万代ガ池に飛び込んで絶命したという。大坂城を脱出した信繁は「豊臣秀頼と薩摩あるいは琉球に逃れた」と当時の東インド会社平戸商館長リチャード・コックスも日記に書き残している。

    ・豊臣秀頼の子・国松は殿様になっていた!?

     数々の生存説の中でも目を引くのが、豊臣秀頼の一子・国松である。8歳で大坂夏の陣を迎え、六条河原で斬首されたというが、異説がある。

     秀吉の正室・北政所の実兄・木下家定を頼り、豊後の国(現・大分県)、日出藩に寄遇すると、「日出藩の初代・延俊(家定の子)が二代の弟として優遇、同藩内に立石藩を起こして、羽柴姓を与えた」と、木下家は一子相伝として代々伝えている。しかも、その子孫は、江戸時代を生き延び、明治時代には子爵家となった。

    イラスト/高木一夫

    参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)

    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160515-00027179-jprime-ent

    http://amd.c.yimg.jp/amd/20160515-00027179-jprime-000-1-view.jpg
    ダウンロード (5)


    引用元: 【歴史】「本能寺の変」黒幕は家康だった?©2ch.net

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    1: 2016/05/11(水) 20:52:08.10 ID:CAP_USER*
    人気の戦国武将・真田幸村。
    イケメンかと思いきや……。歯も抜けた、さえない男性だった。
    それがなぜ、輝くスーパースターになったのか。

    最近、巷にあふれる幸村は例外なく、「イケメン」だ。ゲーム、マンガ……
    そしてNHK大河ドラマ「真田丸」で真田信繁(幸村)役を務める堺雅人さんも、言うに及ばずだろう。
    きっかけは、人気アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズ(カプコン)だ。



    しかし、幸村の実相は少々、異なるようだ。
    上田市立博物館(長野県)が所蔵する「真田幸村画像」では、幸村はちょびひげを生やし、温和な表情を浮かべ、裃(かみしも)姿で座っている。小柄な印象も受ける。とてもイケメンとは思えない。

    描かれた時の幸村の年齢は不詳だが、幸村は46歳のころには、歯も抜け落ちていたという。
    当時、姉婿に送ったとされる、こんな書状が残っている。

    「去年より俄(にわか)にとしより、殊(こと)の外(ほか)病者に成り申し候(そうろう)。
    歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候」

    病気がちで、歯が抜け、ひげの白髪も増えた……イケメンどころか、貧相な容姿だ。
    一体なぜ、これが「輝くスーパーヒーロー」になったのか。

    歴史研究家で、幸村の直系子孫でもある真田徹さん(67)はこう話す。
    「江戸時代になって書かれた軍記物の『難波(なんば)戦記』が一つのきっかけとなり、ヒーロー幸村は生まれたと見られています」

    詳細・続きはソースで

    http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160511/asahi_2016051000189.html

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    引用元: 【歴史】人気戦国武将・真田幸村、歯抜けのさえない中年だった…なぜスーパーヒーローになったのか 直系子孫の歴史研究家が語る★2©2ch.net

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    1: 2016/07/13(水) 04:07:25.23 ID:CAP_USER9
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160712/K10010592841_1607122035_1607122150_01_02.jpg

     戦国武将の真田幸村が築いたとりで、「真田丸」が取り壊されたあとの詳しい様子を描いた絵図が松江市で見つかりました。
    専門家は、「真田丸」が独立性の高い大坂城の出城だった可能性を示す資料だと注目しています。
    この絵図は、松江市にある松江歴史館の所蔵品の中から見つかりました。
    縦およそ28センチ、横40センチ余りで、真田幸村の名で知られる戦国武将の真田信繁が、大坂冬の陣で築いたとりで「真田丸」が取り壊されたあとの堀の跡や敷地の様子が描かれています。
    真田丸の南側には、惣構堀という外側の堀が記されています。また、北側の大坂城に近い場所には真田丸の出丸として小さなとりでがあったと記されています。

     松江歴史館によりますと、真田丸の姿を描いた絵図は多く残されていますが、取り壊されたあとの詳しい様子を描いたものは珍しいということです。
    資料を分析した奈良大学の千田嘉博学長は「真田丸が独立性の高い出城だった可能性を示す貴重な資料だ」と指摘しています。この絵図は、ことし9月から松江歴史館で公開されます。

    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160712/k10010592841000.html
    (7月12日 21時51分)

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    引用元: 【社会】真田幸村が築いたとりで「真田丸」出城の可能性示す絵図見つかる©2ch.net

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