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    織田信長

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    1: 2016/10/10(月) 05:47:23.55 ID:CAP_USER9
    摠見寺三重塔
    http://best-times.jp/mwimgs/8/4/250/img_8447ec899f6eac21166d8da6a7175a351465431.png

    1579年、織田信長の命により築城された、安土城。そのわずか3年後の1582年には、焼失、落城してしまった本城ですが、実は今その跡を訪れると、そこには、信長の意外な一面を知ることのできる遺跡があるのです--。

    ■安土城跡に今も立つ、摠見寺三重塔

     安土城は、信長が1576年、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高199メートルの安土山に築城させた地下1階、地上6階建、日本初の、石垣の上に天主(天守)を持つ平山城でした。

     現在は、両側が石垣で囲まれた大手道を上りきった山頂に、人の背丈ほどの石垣に囲まれた東西約25メートル、南北約30メートルの台地に、約90個の礎石が整然と並ぶだけの天主跡があるのみです。

     さて、この大手道の石段を注意深く見ながら上がっていきますと、ところどころに石仏が敷かれていることに気づきます。

     もちろん、これらの石仏はおまいりのために置かれているのではありません。城普請に使われる木材や石材は近郊の山から採取されるのが普通ですが、信長が命じた性急な工期のために、近隣の寺の解体によって得られた木材や石材として用いられた墓石や石仏も少なくなかったのです。つまり、墓石や石仏を踏みながら大手道を上り下りした人がいたということです。

     宗教心が薄かったといわれる〝革命児〟信長ならではのことと思われますが、信長のこのような所業に畏怖した家臣や職人は少なくなかったと思われます。

     大手道とは異なる道を下りますと、石垣に囲まれた狭隘な土地に窮屈そうに建つ摠見寺三重塔に出会います。一般的にはほとんど知られていないのではないでしょうか。

    続きはソースで

    ●志村 史夫しむら ふみお

    http://best-times.jp/articles/-/3365
    ダウンロード (3)


    引用元: 【歴史】「信長は宗教心が薄かった」は本当か? 安土城には菩提寺があった©2ch.net

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    1: 2016/05/15(日) 22:48:36.79 ID:CAP_USER
    「本能寺の変」黒幕は家康だった 戦国時代の不思議伝説

     戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いはず。

     タイムマシンがあったら戦国時代を見に行きたい、と思っている人も少なくないのでは? 歴史は勝者が作ったフィクションという言葉もあるくらい、戦国時代にも謎や伝説が数多く残されているのだ。

    ・「本能寺の変」で信長を◯したのは誰だ!?

     いまも日本史最大の謎と言われる「本能寺の変」。明智光秀の単独犯だったと言われているが、本当にそうだったのか。単独犯説が疑われる理由は2つある。1つは当時、最も信長が恐れていた敵は、一体誰なのか? もうひとつが、わずかな手勢でなぜ信長は本能寺に泊まったのか?

     宿敵・武田家を滅ぼした後、信長が最も恐れたのは、おそらく同盟国ながら着実に力をつけてきている徳川家康ではないか。この家康を暗◯するために、信長は家康を安土城に呼び、もてなした後、京の宿泊先・本能寺に誘う。

     わずかな手勢で泊まったのは、家康を安心させるために違いないというのだ。そして、この暗◯計画をともに考えたのが明智光秀ではないか。ところが光秀は信長に「唐入り」を命じられるのが嫌で、この計画を家康に打ち明け、信長暗◯に誘う。

     妻子を信長に◯された経験のある家康は、うすうす信長の◯意に気がついていたため、光秀の「信長暗◯」計画に乗った、つまり信長暗◯の黒幕は家康だったというのだが、真実やいかに。

    ・徳川家康には影武者がいた!?

     隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』で話題になった家康影武者説。実は、家康影武者説はかなり以前からあった。その家康影武者説には、信長が今川義元を討った「桶狭間の戦い」の後という説。天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まる直前という説。そして、豊臣一族を滅ぼした「大坂夏の陣」の最中という説。

     その中で最も可能性が高いのが、2番目の「関ヶ原の戦い直前説」である。これまで子どもたちに対して冷淡だった家康が、関ヶ原以降は生まれてきた子どもたちを溺愛するようになり、好みの女性も年増の女性から若い女性に趣味が変わっていることも、その根拠としてあげられている。

     ・真田信繁は生きていた!?

    「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌が残っているほど影武者がいたと言われる信繁。銭というのは真田の旗の六文銭のこと。つまり6人は影武者がいたということだ。

     「大坂夏の陣」では死を賭して家康の陣に向かって突撃した際も、信繁を偽った真田十勇士の1人、穴山小助が身代わりに、太刀を口にくわえて万代ガ池に飛び込んで絶命したという。大坂城を脱出した信繁は「豊臣秀頼と薩摩あるいは琉球に逃れた」と当時の東インド会社平戸商館長リチャード・コックスも日記に書き残している。

    ・豊臣秀頼の子・国松は殿様になっていた!?

     数々の生存説の中でも目を引くのが、豊臣秀頼の一子・国松である。8歳で大坂夏の陣を迎え、六条河原で斬首されたというが、異説がある。

     秀吉の正室・北政所の実兄・木下家定を頼り、豊後の国(現・大分県)、日出藩に寄遇すると、「日出藩の初代・延俊(家定の子)が二代の弟として優遇、同藩内に立石藩を起こして、羽柴姓を与えた」と、木下家は一子相伝として代々伝えている。しかも、その子孫は、江戸時代を生き延び、明治時代には子爵家となった。

    イラスト/高木一夫

    参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)

    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160515-00027179-jprime-ent

    http://amd.c.yimg.jp/amd/20160515-00027179-jprime-000-1-view.jpg
    ダウンロード (5)


    引用元: 【歴史】「本能寺の変」黒幕は家康だった?©2ch.net

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    1: 2007/11/16(金) 09:50:43 ID:BuFvQtOl.net
    誰?

    引用元: 最も多く戦をした武将は?

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    1: 2014/12/12(金) 17:48:05.75 ID:???0.net
    読売新聞 12月12日(金)17時12分配信
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141212-00050102-yom-ent
     織田信長が東大寺(奈良市)に宛てて、戦乱からの保護を約束した書状が発見された。

     国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が調査し、明らかにした。

     天正元年(1573年)9月の書状で、「当寺濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)・陣取り・放火の事、堅く停止(ちょうじ)せしめおわんぬ」と、東大寺を戦乱に巻き込むことを禁じ、反する者に厳罰を科すとしている。「天下布武」の印も押されている。
    筆跡などから、実際に書いたのは秘書役の家臣だったようだ。

     信長は当時、室町幕府を滅亡させた直後。大和(奈良県)を勢力下に収める武将、松永久秀とも敵対していた。
    不穏な情勢下、6年前に久秀と畿内で対立する三好氏との戦いで大仏殿を焼かれた東大寺は、再び戦火が及ぶのを恐れ、保護を期待していたとみられる。

    引用元: 【歴史】「東大寺を戦乱に巻き込むな」…織田信長の書状発見

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    1: 2014/12/08(月) 22:28:31.89 ID:???0.net
    信長、秀吉らが家臣に宛てた印状4通発見 神戸市の民家で 神戸大が発表
    2014.12.8 20:02

     織田信長と豊臣秀吉、秀次が、志摩国鳥羽(現三重県鳥羽市)で水軍として活躍した九鬼家に宛てた印状4通が神戸市の民家に保管されていることが分かり、調査した神戸大が8日発表した。朝鮮出兵の際に、着物を与えて激励したことや、敵船を乗っ取った手柄を褒めた内容が記されている。

     4通は、信長の黒印状と秀吉の朱印状がそれぞれ1通と豊臣秀次の朱印状が2通。他に関ケ原の戦いの時期に、徳川家康が出した書状の写しも見つかった。神戸大の村井良介学術研究員は「九鬼家に関して知られていないことも多く、今後の研究に役立ちそうだ」としている。

     秀吉の朱印状は、1593年、朝鮮出兵のため出陣した九鬼成隆に着物3着を贈り「これを着ていよいよ精を入れよ。今後の処置については、別に書面で指示する」と激励する内容。

     また、同年の秀次の朱印状では、出兵中の九鬼嘉隆が2月に敵の2船を捕獲したことを挙げ「適切な措置で、まことに見事な働き。かれこれ気遣いをしてくれていることは察している。良い報告を待っている」と称賛している。

    続きはソースで

    http://www.sankei.com/smp/west/news/141208/wst1412080057-s.html

    引用元: 【社会】信長、秀吉らが家臣に宛てた印状4通発見 神戸市の民家で 神戸大が発表

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