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    調査

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    1: 2016/09/28(水) 17:42:38.24 ID:CAP_USER9
    日本初の本格的な都・藤原宮跡(奈良県橿原市)で、元日朝賀で飾る幢幡(旗)を立てた柱穴が七つ見つかり、奈良文化財研究所が28日、発表した。

    続日本紀の「大宝元年(701年)の律令国家の完成を祝う儀式で7本の幢幡が立てられた」との記述と一致し、新体制をスタートさせた儀式の様子を知る大きな手掛かりとして注目される。

    七つの柱穴は、2008年度の調査で見つかった一部を含めて大極殿院南門前の広場跡で出土。
    一つの柱穴を中心に、左右対称にそれぞれ三角を形作る配置で柱穴が三つずつ確認された。

    研究所によると、幢幡の遺構としては最古。

    ソース/中日新聞社
    http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016092801001384.html
    ダウンロード (10)


    引用元: 【歴史】藤原宮に701年の朝賀跡 続日本紀の記述と一致 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/09/07(水) 15:53:47.47 ID:CAP_USER9
     天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの墓とみられる長崎県諫早市多良見町山川内の石碑の調査が6日、現地で始まった。

     2014年末に行った地中のレーダー調査では墓坑と推測される反応が確認されており、研究者らのグループが1週間の調査で墓であることの証明を目指す。

     石碑はミカン畑の一角にあり、高さ1・8メートル、幅1・2メートル。正面に2人の戒名が刻まれている。
    裏面にミゲルの四男、千々石玄蕃の名前があり、大村藩主から与えられた地にあることなどからミゲルと妻の墓とされ、2004年に発表された。

     この日は関係者ら約30人が集まり、調査の安全などを祈願。
    7日まで準備を行い、8日から12日まで、石碑前にある直径、深さ各1メートルの円筒形の墓坑を中心に、遺骨や副葬品の有無などを調べる。

     調査を手掛けてきた石造物研究家の大石一久さん(64)は「墓と分かればミゲルが眠っている可能性が高い。貴重な発見につながれば」と期待を込めた。
    ミゲルの子孫の浅田昌彦さん(63)(川崎市)は「代々受け継いできた墓が誰のものか明らかにしたい。歴史的価値を解き明かせたら」と話していた。

    http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160907/20160907-OYT1I50008-L.jpg
    http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160907-OYT1T50059.html
    2016年09月07日 15時07分
    images


    引用元: 【長崎】天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓?調査開始©2ch.net

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    1: 2016/05/01(日) 09:54:54.35 ID:CAP_USER*
    国宝・松江城「天守雛形」の謎…国内最古説も製作年不明、現天守と異なる細部 市が本格調査へ

    http://www.sankei.com/west/news/161221/wst1612210004-n1.html
     国宝松江城天守の柱や梁(はり)などの内部構造を精巧に再現している模型「松江城天守雛形(ひながた)」。
    天守の歴史を知るための貴重な資料だとして松江市指定文化財となっているが、江戸時代・寛永期の作とされてきた従来の見解が近年揺らぐなど、謎の部分も多い。
    このため、市松江城調査研究室は今年度以降、模型の本格調査に乗り出す考えだ。

    完成後30年で改修?

     天守の模型は、大規模改修などに先立って製作されるケースが多い。
    松江城天守雛型の場合は、1638(寛永15)年に松江藩主となった松平直政に従って国入りしたお抱え大工頭が、「天守が1メートル程度傾いている」と直政に申し出て、修理を命じられた際に作ったとされている。

     この根拠となったのが、幕末に家臣が記した「藩租御事蹟(ごじせき)」という書物の記述とされる。
    「これが本当なら、1611(慶長16)年の天守完成からわずか30年ほどで、大改修の必要に迫られたことになる」と松江城調査研究室。

     だが、寛永期に天守が改修された史実は見当たらない。
    修理記録や部材の墨書などから確認できるのは、1676(延宝4)年に行われた天守付櫓(つけやぐら)の装飾「懸魚鰭(げぎょひれ)」の修復。
    その後の1700年代以降は天守がたびたび改修されたようだ。

    続きはソースで

    産経WEST:2016.5.1 09:00 
    ダウンロード (1)


    引用元: 【文化/歴史】 国宝・松江城「天守雛形」の謎 国内最古説あるも製作年不明 現天守と異なる細部 市が本格調査へ©2ch.net

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    1: 2016/04/04(月) 13:24:20.41 ID:CAP_USER*
    <関ケ原>戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載

    毎日新聞 4月4日(月)8時10分配信


    「前久書状」の一部。2行目に「青野カ原ニテノ合戦」との記述がある=陽明文庫提供

     関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?--。京都市右京区の陽明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、
    合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。

     調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所・科研費プロジェクト主催)で発表した。

     藤井教授によると、前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(1536~1612年)が記した。第二次世界大戦前に編集された「編年史料稿本」に書状の一部が収録されていたが、書状全体は公開されていなかった。「陽明文庫叢書(そうしょ)」の編集のため、書状を調査していて確認した。

     前久書状は合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した。

     藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で
    「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。

     「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、「関ケ原」の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。
    藤井教授は「情報量が豊富な今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。【岡崎英遠】

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000007-mai-soci

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    引用元: 【歴史】 ”関ケ原” 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2015/03/25(水) 22:11:16.03 ID:???*.net
    来月、天皇訪問のパラオ・ペリリュー島の閉鎖壕を調査 未収集2600柱の遺骨発見に期待
    【産経ニュース】 2015/3/25 19:38

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    天皇、皇后両陛下が来月、太平洋戦争の戦没者慰霊で訪問されるパラオのペリリュー島で25日、入り口がふさがれていた壕が開口され、厚生労働省の職員や遺族団体の関係者らによる遺骨収集が始まった。

    作業が始まったのは、米軍が上陸したペリリュー島南西部の海岸のすぐ近くにある「イワマツ壕」。
    作業開始にはレメンゲサウ大統領も立ち会い「遺骨が故郷に戻ることで、死者の霊が安らかに眠ることができると信じているのは、日本もパラオも同じ」と述べ、遺骨収集に積極的に協力していく姿勢を示した。

    続きはソースで

    (共同)

    ソース: http://www.sankei.com/world/news/150325/wor1503250054-n1.html
    画像: http://sankei.com/images/news/150325/wor1503250054-p2.jpg
     (厚労省の職員らが参加しパラオ・ペリリュー島のイワマツ壕周辺で始まった遺骨収集作業=25日午後(共同))


    引用元: 【国際】パラオ・ペリリュー島の閉鎖壕を調査、未収集2600柱の遺骨発見に期待 [15/03/25]

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