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    豊臣秀吉

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    1: 2016/09/22(木) 13:21:36.70 ID:CAP_USER9
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160921-00000113-mai-cul

    ◇駐日オランダ人の書簡 初確認

    徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)について、駐日オランダ人が書き残した文書がオランダ・ハーグ国立文書館で確認された。国際日本文化研究センター(日文研)=京都市西京区=が21日、発表した。追い詰められた豊臣秀頼が寝返ろうとする大名を城壁から突き落としたなどと記されており、専門家は「大坂の陣の様子がうかがえる貴重な史料だ」と話している。

    オランダ東インド会社が日本での外交・貿易活動拠点としていた「平戸オランダ商館」の書簡で、一部は既に和訳されているが、09~33年に書かれた約520点について日文研が現地の大学と共同で新たに調査していた。

    大坂の陣について書かれた文書は、豊臣家が滅亡した夏の陣の約1週間後、同社社員が長崎の平戸オランダ商館長あてに記していた。大坂城の落城直後、大坂などで大名の家臣や商人などから聞き取った情報を基にまとめたとみられる。
    「秀頼の数人の大名が、赦免が得られると考え、皇帝(徳川家康)側に寝返るために城に火を付けたが、彼らは逃げる前に秀頼によって、その場で(城壁から)落とされて死んだ。また、その火事を消すことは不可能であったため、戦う勇気を失っていた秀頼と他の大名たちは切腹し、それによって皇帝は(中略)城を奪還した。
    (中略)秀頼の家臣のうち兵士やその他の者約1万人が死んだ」などと書かれている。

    大阪城天守閣(大阪市)の跡部信・主任学芸員は「秀頼の家臣が裏切ったという記述は他の文献にもあるが、城壁から落としたという記述は見たことがない。
    外国人の目を通した客観的な記述という点でも意味がある」と評価する。
    調査にあたった日文研のフレデリック・クレインス准教授(日欧交流史)は「研究を進め、更に当時の日本の様子を明らかにしたい」と話している。    

    ◇大坂の陣 

    徳川家康が豊臣家を滅ぼした戦。豊臣秀吉ゆかりの方広寺(京都市東山区)の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が「家康」の名を分断しているなどとして、家康側は1614年11月、大坂城を包囲した(冬の陣)。しかし、豊臣側は真田信繁(幸村)らを中心に反撃し、いったんは和睦した。翌15年5月、家康が再び大坂城を攻めて落城させた(夏の陣)。秀頼と母淀殿は、この戦いで自決した。

    ◇大坂の陣までの主な出来事

    慶長 5(1600)年    関ケ原の戦いで徳川家康が勝利
    慶長 8(1603)年    家康が江戸に幕府を開く
    慶長19(1614)年 7月 方広寺鐘銘事件
               11月 徳川方が大坂城を包囲=冬の陣
               12月 和議成立
    慶長20(1615)年 4月 家康が再び出陣命令=夏の陣
                5月 大坂城陥落、秀頼と淀殿が自害

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    引用元: 【歴史】「大坂の陣」について記された在日オランダ人の書簡発見。豊臣秀頼が寝返った大名たちを城壁から突き落とす様子など描かれる★2 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/06/17(金) 12:06:17.94 ID:CAP_USER9
    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/news-image/IP160616TAN000185000.jpg
    真田信繁の書状の原本とみられる史料を紹介する玉城客員教授

    NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公で、長野県上田市ゆかりの戦国武将真田信繁(幸村)が出したとみられる書状が新たに見つかったことが16日、分かった。
    清泉女学院大(長野市)の玉城司客員教授(63)が発見し、1590(天正18)年の年号と信繁の署名がある。
    信州の歴史文書をまとめた「信濃史料」に内容が載っている書状の原本とみられる。

    玉城客員教授によると、現在伝来している信繁が出した文書は20通で、これまで原本が確認されているのは7通。
    今回見つかったのは信繁が20代前半ごろの早い段階の史料で、「信繁」と署名するのは唯一という。

    書状は、豊臣秀吉が相模国(現神奈川県)の北条氏を滅ぼした小田原攻めがあった90年の8月10日付で、「安中平三」宛て。
    絶え間なく戦い続けてきたことから安中の姓を与え、領地などを与えることを約束する内容だ。

    従来の研究では、「安中と主従関係に入った」「小田原出兵に際し関東で軍事行動をしていた」などを意味するとされている。
    真田宝物館(長野市)によると、真田家には安中作左衛門という家臣がおり、平三と同一人物かは検討を要するという。

    玉城客員教授が2015年12月ごろ、上田市の古書店で書状を見つけた。
    信繁の兄で松代藩真田家初代藩主信之(信幸)、信之の長男信吉の書状など真田家に関連する10通と共にあった。

    真田宝物館は、江戸後期に真田家の歴史を家臣がまとめた「真田家御事蹟稿(ごじせきこう)」に、今回見つかった古文書のうち、信繁書状を含む何点かが載っており、
    「これらがまとめて家臣の家に伝来したことは確実」としている。

    玉城客員教授は、一緒に伝来した書状と紙質や寸法が近く、用字や字配りなどから信繁の自筆と推論。
    相手に礼を表すため、本文に重ねる「礼紙(らいし)」も残っていることも原本と判断する一因とする。
    「書風から実直で飾らない人柄がうかがえる。信繁の人物像も含め歴史的意義を見直してもらえればありがたい」と話し、ほかの研究にも役立ててもらう考えだ。

    書状は当面、真田宝物館に預ける。
    同館は今後、開催中の真田家の史料を集めた特別企画展で展示する方針。

    ソース元:信濃毎日新聞
    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160617/KT160616FTI090018000.php

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    引用元: 【歴史】真田信繁が署名した唯一の「信繁」 清泉女学院大客員教授が書状の原本を発見[06/17] [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/01/21(木) 18:35:23.10 ID:CAP_USER*
    豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見 東大グループが復元・分析
    01/21 17:54

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    豊臣秀吉が家臣に宛てた手紙33通が、まとめて発見された。

    ずらっと並べられた書状。
    400年以上前、豊臣秀吉が家臣・脇坂安治に送った手紙33通。
    保管先の火災で、一部燃えたり、水浸しになったりと、状態は悪かったものの、東京大学の研究グループが復元・分析した。

    東京大学の村井祐樹氏は「豊臣秀吉のしつこいくらいの細かい性格がよくわかる。
    佐賀から材木を出せということについて、何度も何度も、あるいは伊賀国の統治の仕方について、あわせると、1年間で10点くらい、たびたび細かい指示を出している」と話した。

    豊臣秀吉が徳川軍と戦っていた時代にも、家臣に材木を集めさせ、橋や建物の建築にも力を抜いていなかったことがうかがえる。

    これらの手紙を受け取った家臣・脇坂安治は、豊臣秀吉にとって、自分が一から育て上げた部下のような存在だったという。

    FNN
    http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00314235.html 

    引用元: 【社会】豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見、東大の研究グループが復元・分析「しつこいくらいの細かい性格がよくわかる」 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2015/04/15(水) 22:03:07.69 ID:???*.net
    大阪府文化財センターは15日、大阪市中央区の大阪城の大手口近くから、大量の石材が出土したと発表した。

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    豊臣秀吉と徳川幕府がそれぞれ築いた城の石材が混在しており、徳川幕府が不要な石材を廃棄したとみられる。
    二つの時代の流れを知る上で貴重な発見だという。

     センターによると、医療施設の建設に伴う発掘調査で、「二の丸」の出入り口である大手口付近の1234平方メートルの範囲を発掘したところ、大きさ0.6~1.5メートルの石材約40個が見つかった。

     徳川幕府は秀吉が築いた大坂城を大坂夏の陣(1615年)で攻め落とし、その後に再築城した。
    見つかった石材は一緒に出土した遺物などから、1620~30年に埋められたものだとみられる。

    続きはソースで

    画像
    http://img.mainichi.jp/mainichi.jp/select/images/20150416k0000m040078000p_size7.jpg
    http://mainichi.jp/select/news/20150416k0000m040070000c.html

    引用元: 【歴史】大阪城大手口近くで大量の石材出土 秀吉と徳川両時代

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    1: 2014/11/13(木) 18:16:50.74 ID:???*.net
    秀吉の権威示す?本丸東西に建物跡 滋賀・水口岡山城跡
    【京都新聞】 2014/11/13 08:39

    滋賀県甲賀市教委は12日、戦国時代末期に同市水口町に築かれ、関ケ原の戦い(1600年)後に廃城となった水口岡山城跡から、主郭部(本丸)の東西で石垣や石階段の一部などが見つかったと発表した。それぞれ土台部分の規模などから天守クラスの大きさの建物跡だったと推定しており、「豊臣政権の権威を世間に誇ろうとしたのではないか」と説明している。

    水口岡山城は、豊臣秀吉が甲賀支配の足がかりにしたとされ、秀吉の重臣中村一氏(かずうじ)が1585(天正13)年、古城山(標高283メートル)に築城。3代目城主の長束正家は関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ、築後15年で廃城となった。その後、徳川家康は水口を直轄地とし、城を徹底的に壊す「破城(はじょう)」にした。

    今回見つかった東西の建物跡の間隔は70~80メートル。東の建物跡からは石垣と柱を支える土台の礎石が見つかり、天守の土台部が北東へ一部張り出しているのが分かった。西側からは石の階段と排水溝とみられる石組み溝が見つかった。

    続きはソースで

    ソース: http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20141113000017
    画像: http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2014/11/20141113085346okayamajo.jpg
     (本丸西側の建物跡から見つかった石組み溝(手前)と石階段=甲賀市水口町水口・水口岡山城跡)

    関連ソース:
    水口岡山城 天守台2つか | 読売新聞
    http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20141112-OYTNT50554.html

    引用元: 【史跡】秀吉の権威示す?本丸東西に建物跡 滋賀・水口岡山城跡 [14/11/13]

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