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    遺族

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    1: 2015/03/21(土) 00:42:29.00 ID:???*.net
     太平洋戦争中に日本で墜落した米軍機の搭乗兵の最期を調べ、遺族に知らせ続けている人がいる。横浜市港北区の新井勲さん(80)。

    01


    七十年前、疎開先の静岡市で墜落機からはい出した瀕死(ひんし)の米兵の姿を目にしたのがきっかけになった。「鬼と教わった米兵も同じ人間だった。大切に思う人のためにも彼らの魂を弔いたい」。二十一日、群馬県邑楽(おうら)町の清岩寺で墜落兵を悼む日米合同の慰霊祭を開く。

     一九四五年六月十九日。東京から疎開した母の古里、静岡市は火の海になった。当時、小学五年生。翌二十日未明、両親と逃げた安倍川の土手で、太ももから血を流して倒れている米兵を見た。

     時折口元をゆがめ、手を動かしていたが、やがて動かなくなった。土手の下では米爆撃機B29の機体が燃えていた。「彼をののしることも、助けることもしなかった。あの米兵は誰だったのか、ずっと気になっていた」。トラック販売業を引退した十年前、墜落機の調査を始めた。

     日帰りで静岡市を訪れ、安倍川周辺の古い家を訪ね歩いた。空襲体験者の証言から、墜落原因はB29同士の衝突で、対岸にもう一機が落ちたと判明。墜落した日付や場所などの記録を載せたインターネットサイトで二機の機体番号を調べ、情報を集めた。

     二〇〇七年、墜落機の情報を求める遺族らが集う掲示板で、対岸に落ちた一機の操縦士のめいの書き込みを見つけた。英訳したメールのやりとりで搭乗機が静岡市に落ちたことを伝えると「ずっと捜していた」と感謝の返事が届いた。

    続きはソースで

    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015032002000245.html

    画像
    戦争当時の地図でB29の墜落地点を説明する新井勲さん=横浜市港北区で
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/images/PK2015032002100153_size0.jpg

    引用元: 【歴史】「鬼と教わった米兵も同じ人間だった。大切に思う人のためにも彼らの魂を弔いたい」…日米合同の慰霊祭、非戦の思い継ぐ

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    1: 2015/02/21(土) 15:10:04.95 ID:???*.net
    「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家の小林多喜二が、特高警察の拷問で死亡し自宅に運ばれた後に撮影された写真の原板が、20日までに東京都内で見つかった。遺体を母親セキらが囲み、悲嘆に暮れている様子を生々しく伝える貴重な史料だ。

    no title


     作家仲間らが遺体を囲んでいる写真は有名だが、今回見つかった写真は存在も知られていなかった。
    双方の写真の原板が一緒に保管されていた。

     見つかったのはガラス乾板という、現在のネガフィルムに当たるもの。プロレタリア文学研究者の伊藤純さん(82)が昨秋、都内の自宅で、父親で多喜二の作家仲間だった貴司山治の遺品を整理中に発見した。

    http://www.47news.jp/CN/201502/CN2015022001002153.html

    ★1の立った日時:2015/02/20(金) 22:41:07.87
    前スレ
    【特高拷問死/蟹工船】 小林多喜二、虐◯後の写真発見 母ら悲嘆の様子伝える©2ch.net
    http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1424439667/

    引用元: 【特高拷問死/蟹工船】 小林多喜二、虐殺後の写真発見 母ら悲嘆の様子伝える★2

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    1: 2014/12/30(火) 16:08:22.37 ID:???0.net
    先の大戦で沈んだ軍艦「多摩」の初めての慰霊祭が10月25日、東京都府中市にある大国魂神社で行われると聞いたとき、正直、意外な気がした。
    「沈没した軍艦は、関係者によって手厚く慰霊されている」と思い込んでいたからだ。

    多摩は、旧海軍の軽巡洋艦で球磨型の2番艦。大戦末期の昭和19(1944)年10月25日、フィリピン沖で米潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没し、440人とされる全乗組員が亡くなった。
    だが、その慰霊祭がこれまで一度も行われたことがなかったというのだ。

    意外だったことは他にもある。
    大国魂神社は「慰霊祭には少しでも多くの遺族、元乗組員ら関係者に参列してもらいたい」との思いで準備を進めたが、作業は困難を極めたそうだ。

    「遺族と連絡を取ろうにも、乗組員名簿が見つからない。防衛省や厚生労働省には名簿があるはずと考え、問い合わせてみたが、個人情報は出せないといわれてしまった」。
    このため、担当者は遺族と思われる人物を一人一人、インターネットで調べて電話をかけたり、入手可能な戦没者名簿から関係がありそうな名前を見つけては手紙を出したりと、地道な作業を続けた。
    それでも、これまでに氏名などを特定できた沈没時の乗組員は30人ほどしかいない。

    初の慰霊祭が行われた10月25日は沈没からちょうど70年。
    あまりに長い年月がたち、国のために戦って亡くなった人の記憶は薄れるばかりだ。

    続きはソースで

    (三浦恒郎)

    http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/141230/lif14123012110008-n2.html

    引用元: 【軍事】軍艦「多摩」沈没から70年で初の慰霊祭・・・姉妹艦「北上」「大井」は単独慰霊不明、「木曽」慰霊無し・・・薄れる戦争の記憶

    【軍艦「多摩」沈没から70年で初の慰霊祭・・・姉妹艦「北上」「大井」は単独慰霊不明、「木曽」慰霊無し・・・薄れる戦争の記憶】の続きを読む

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    1: 2014/11/03(月) 17:15:01.90 ID:???0.net
    太平洋戦争中、過酷な戦いで多くの戦死者を出した旧日本軍による「インパール作戦」からことしで70年となるなか、遺族が、戦死した父親の母校で行われた慰霊祭に初めて出席しました。

    慰霊祭に出席したのは、インパール作戦で当時34歳で戦死した田中重藏さんの娘、田中黎子さん(75)と柳川恭子さん(74)の姉妹です。
    「インパール作戦」は、70年前の昭和19年、旧日本軍がインド北東部の攻略を目指してイギリス軍などと戦い、過酷な戦いでインド国内だけで3万人が戦死しました。

    2人は、父親の母校の拓殖大学で毎年、戦没した卒業生などの慰霊祭が行われていることを大学からの連絡で知り、ことし初めて出席しました。
    父親が出征したとき、2人はそれぞれ1歳半と生後半年で、一緒に暮らした記憶はほとんど残っていないということです。

    ただ、出征前に家族4人で撮った写真や、戦地から送られてきた家族を気遣う数々の手紙を今も大事にしているということです。
    姉の黎子さんは「終戦の知らせを聞いたときは父が帰ってくると喜びましたが、その後、戦死していたことを知らされ、妹と2人で手をつないで泣きました。
    きょうは、手を合わせながら、幼い子どもや母親がつらい思いをする戦争は二度としてはいけないと改めて思いました」と話していました。

    NHK 11月3日 16時55分
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141103/k10015904381000.html

    引用元: 【社会】インパール作戦70年 遺族が慰霊祭に出席

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    1: 2014/08/31(日) 00:18:40.40 ID:???0.net
     ブティックやオフィスが並ぶ瀟洒(しょうしゃ)な街、東京・丸の内で、かつて戦後最悪と呼ばれたテロ事件があった。過激派が仕掛けた爆弾で8人が死亡し、380人がけがをした三菱重工ビル爆破事件だ。30日に発生40年を迎えたが、犠牲者の遺族や元捜査員は「事件は終わっていない」と言う。

     1974年8月30日。中学3年の夏休みも終わりに近づく金曜日。石橋明人さん(54)は自宅のテレビで父光明(てるあき)さん(当時51)の会社の惨状を知った。

     8人死亡。その1人が三菱重工に勤める父だった。社員食堂で昼食をとったあと、同僚と別れたところで爆発に巻き込まれた。即死だった。

     この年、父の会社をひとりで訪ねた。「一度行ってみないといけない」と思った。父の上司の案内で、父が座っていた椅子に腰かけた。
    机の引き出しを開けると、父のにおいがするように感じた。

     爆弾が仕掛けられた1階の植え込みには、粉々になった窓ガラスの破片が残っていた。数センチ大の一かけらを持ち帰った。父の腕時計と眼鏡、ガラス片で穴があいた財布と一緒に仏壇の下にそっとしまった。

    ソース(朝日新聞) http://www.asahi.com/articles/ASG8Y64P1G8YUTIL03H.html?ref=rss
    写真=爆発が起きた三菱重工ビルの玄関前の路上には割れた窓ガラスが散乱した
    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140830002295_comm.jpg
    写真=爆発があった三菱重工ビル前のいまの様子。街路樹と石の舗装が続き、会社員や買い物客らが行き交う
    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140830002335_comm.jpg
    地図=三菱重工爆破事件があった現場
    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140830002283_comm.jpg
    写真=インタビューに応じる石橋明人さん
    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140830002299_comm.jpg
    写真=事件で亡くなった父親の遺品
    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140830002323_comm.jpg

    引用元: 【歴史】戦後最悪と呼ばれたテロ事件、8人死亡・380人けが、三菱重工ビル爆破事件から40年…遺族や元捜査員「事件は終わっていない」

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