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    遺跡

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    1: 2016/10/13(木) 20:50:45.29 ID:CAP_USER9
    九州派と近畿派がインターネット中継で意見を交わした「歴史バトル」
    http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/10/11/20161011dd0phj000018000p/9.jpg
    インターネットを通じ、邪馬台国の九州説、畿内説に分かれて議論する研究者
    http://www.nishinippon.co.jp/import/saga/20161010/201610100002_000.jpg
    持論を展開する石野さん(右から2人目)と進行の今尾さん(右端)=9日、明日香村の県立万葉文化館
    http://www.nara-np.co.jp/photo/aa4d3e0a6b5224978ebc2c01dbd116be.jpg
    http://www.nara-np.co.jp/20161010103950.html

     吉野ケ里歴史公園(吉野ケ里町)で9日、特別記念フォーラム「歴史バトル『邪馬台国はどこだ?』」があった。同公園と奈良県明日香村の県立万葉文化館の両会場をインターネット中継し、九州説派と近畿説派がそれぞれの持論を展開した。

     吉野ケ里歴史公園で開催中の特別企画展「よみがえる邪馬台国 邪馬台国と謎の国『不弥国』」(11月6日まで)に合わせてフォーラムを企画。両会場には多くの考古学ファンが詰め掛けた。

     吉野ケ里歴史公園の会場には、九州説を唱える佐賀女子短大の高島忠平名誉教授ら3人の研究者が登壇。奈良県側は近畿説を推す香芝市二上山博物館の石野博信名誉館長ら3人が参加した。

     両派は主張を一歩も譲らず討論を展開した。九州派は「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の特徴が吉野ケ里遺跡の建物跡の配置と酷似していることなどを指摘した。

     一方、近畿派はこれまでに出土した卑弥呼の時代の鏡のほとんどが近畿地方で見つかっている点を強調し「九州に邪馬台国があったというのは無理がある」と主張した。

     参加者たちは、資料を手に熱心にメモを取り、古代のロマンに胸をときめかせた。【松尾雅也】

    http://mainichi.jp/articles/20161010/ddl/k41/040/179000c

     九州説か、畿内説か-邪馬台国の場所を巡って討論するフォーラムが9日、吉野ケ里歴史公園(吉野ケ里町、神埼市)と奈良県立万葉文化館(同県明日香村)で開かれた。両会場をインターネット中継でつなぎ、研究者ら8人がそれぞれ持論を展開。吉野ケ里町で約200人、明日香村で約350人の考古学ファンが耳を傾けた。

     吉野ケ里歴史公園で開催中の企画展「よみがえる邪馬台国」の関連イベントで昨年に続き2回目。

     奈良県の香芝市二上山博物館の石野博信名誉館長は、纒向(まきむく)遺跡(同県桜井市)に計画的に配置された大型の構造物や水路の遺構を根拠に「発達した文化の証しで、都市の造成が始まった」と畿内説を主張。遺跡から発掘した土器のうち、九州や関東などの土器が15~30%混じっている点を踏まえ「他地域との交流が特に盛んだった」と述べ、畿内にあった邪馬台国が連合国家の中心だったと説明した。

     吉野ケ里遺跡の発掘を主導した考古学者の高島忠平氏は、政治的影響力が強い大陸に近い北部九州に邪馬台国を中心にした勢力が存在したと主張。高島氏は「魏志倭人伝が記す卑弥呼の館の特徴は、吉野ケ里遺跡の遺構や遺物と符合する点が多い」と強調。同時代に中国の権力者が贈ったとされる鉄製の鏡が大分県日田市で見つかったことから、「中国の皇帝が卑弥呼に贈ったと考えるのが自然だ」と述べた。

    =2016/10/10付 西日本新聞朝刊=
    http://www.nishinippon.co.jp/nnp/saga/article/280919

    ダウンロード (1)


    引用元: 【佐賀】「九州に邪馬台国があったというのは無理がある」 ネット中継で「畿内vs九州」論戦、両者一歩も譲らず…吉野ケ里歴史公園★5©2ch.net

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    1: 2016/06/18(土) 09:43:47.18 ID:CAP_USER9
    「奇跡の遺跡」の価値が認められた-。
    文化審議会が東名(ひがしみょう)遺跡(佐賀市金立町)を国史跡に指定すべきと答申した17日、遺跡の希少性や考古学的価値を熱心に訴えてきた地元NPOや意見具申した市教育委員会からは、喜びの声が上がった。
    湿地性貝塚という特性により、他の遺跡と比べ出土品の「質と量」で群を抜く遺跡。
    出土品は30万~40万点に上り、保存・活用に向けた本格的な検討の必要性も出てきた。

    「これらは全部本物ですよ。8000年前の縄文時代の遺物です」

    遺跡に隣接する東名縄文館を管理するNPO法人「徐福・湿原の森づくり会」理事長の江島徳太郎さん(76)は、誇らしげに展示品を紹介する。

    「佐賀の歴史の原点。多量の出土品は、国の宝にふさわしい」

    国史跡指定が決定的となり、言葉にも力がこもる。

    貝塚は、調整池の建設工事によって偶然見つかった。
    厚い粘土層に覆われた湿地性貝塚という特性があり、約8000年前の動植物性遺物が良好な保存状態で多量に見つかっている。
    偶然の発見や保存に適した条件がそろっていたことから、江島さんたちは「奇跡の遺跡」と呼ぶ。

    続きはソースで

    http://www.saga-s.co.jp/images/article/2016/06/18/SAG2016061899000045_id1_20160618083036.jpg

    ソース元:佐賀新聞
    http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/324056

    ダウンロード (9)

    引用元: 【歴史】「奇跡の遺跡が認められた」出土品は群抜く”質と量” 湿地性貝塚・東名遺跡[06/18] [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2016/09/29(木) 11:42:58.76 ID:CAP_USER9
    入場者らでにぎわう弥生くらし館
    http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/09/26/20160926dd0phj000020000p/9.jpg

     神埼市と吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里歴史公園内の弥生くらし館で、「邪馬台国と謎の国『不弥国(ふみこく)』」が開かれている。奴国の東に所在したとされる不弥国だが、不明な点が多いという。不弥国の候補地である地域にスポットを当て、215件を展示している。11月6日まで。【満島史朗】

     今回の展示は毎年秋に開かれる特別企画展「よみがえる邪馬台国」シリーズの第8回。公園管理センターによると、取り上げた「不弥国」は「魏志倭人伝」に奴国の次に「東行不弥国に至る百余里」などと記されている。邪馬台国の所在地を考える上で重要な国だが、多くの謎に包まれたクニだという。

    続きはソースで

    http://mainichi.jp/articles/20160925/ddl/k41/040/165000c
    ダウンロード (1)


    引用元: 【佐賀】「邪馬台国はどこだ?」 謎の国「不弥国」、候補の4地域にスポット…吉野ケ里歴史公園内、弥生くらし館で展示★3©2ch.net

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    1: 2016/10/10(月) 05:47:23.55 ID:CAP_USER9
    摠見寺三重塔
    http://best-times.jp/mwimgs/8/4/250/img_8447ec899f6eac21166d8da6a7175a351465431.png

    1579年、織田信長の命により築城された、安土城。そのわずか3年後の1582年には、焼失、落城してしまった本城ですが、実は今その跡を訪れると、そこには、信長の意外な一面を知ることのできる遺跡があるのです--。

    ■安土城跡に今も立つ、摠見寺三重塔

     安土城は、信長が1576年、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高199メートルの安土山に築城させた地下1階、地上6階建、日本初の、石垣の上に天主(天守)を持つ平山城でした。

     現在は、両側が石垣で囲まれた大手道を上りきった山頂に、人の背丈ほどの石垣に囲まれた東西約25メートル、南北約30メートルの台地に、約90個の礎石が整然と並ぶだけの天主跡があるのみです。

     さて、この大手道の石段を注意深く見ながら上がっていきますと、ところどころに石仏が敷かれていることに気づきます。

     もちろん、これらの石仏はおまいりのために置かれているのではありません。城普請に使われる木材や石材は近郊の山から採取されるのが普通ですが、信長が命じた性急な工期のために、近隣の寺の解体によって得られた木材や石材として用いられた墓石や石仏も少なくなかったのです。つまり、墓石や石仏を踏みながら大手道を上り下りした人がいたということです。

     宗教心が薄かったといわれる〝革命児〟信長ならではのことと思われますが、信長のこのような所業に畏怖した家臣や職人は少なくなかったと思われます。

     大手道とは異なる道を下りますと、石垣に囲まれた狭隘な土地に窮屈そうに建つ摠見寺三重塔に出会います。一般的にはほとんど知られていないのではないでしょうか。

    続きはソースで

    ●志村 史夫しむら ふみお

    http://best-times.jp/articles/-/3365
    ダウンロード (3)


    引用元: 【歴史】「信長は宗教心が薄かった」は本当か? 安土城には菩提寺があった©2ch.net

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