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    関ヶ原の戦い

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    1: 2016/04/04(月) 13:24:20.41 ID:CAP_USER*
    <関ケ原>戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載

    毎日新聞 4月4日(月)8時10分配信


    「前久書状」の一部。2行目に「青野カ原ニテノ合戦」との記述がある=陽明文庫提供

     関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?--。京都市右京区の陽明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、
    合戦直後の1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。

     調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所・科研費プロジェクト主催)で発表した。

     藤井教授によると、前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(1536~1612年)が記した。第二次世界大戦前に編集された「編年史料稿本」に書状の一部が収録されていたが、書状全体は公開されていなかった。「陽明文庫叢書(そうしょ)」の編集のため、書状を調査していて確認した。

     前久書状は合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されていたことが判明した。

     藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で
    「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。

     「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、「関ケ原」の記述が出現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。
    藤井教授は「情報量が豊富な今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。【岡崎英遠】

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000007-mai-soci

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    引用元: 【歴史】 ”関ケ原” 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 [無断転載禁止]©2ch.net

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    1: 2014/11/13(木) 18:16:50.74 ID:???*.net
    秀吉の権威示す?本丸東西に建物跡 滋賀・水口岡山城跡
    【京都新聞】 2014/11/13 08:39

    滋賀県甲賀市教委は12日、戦国時代末期に同市水口町に築かれ、関ケ原の戦い(1600年)後に廃城となった水口岡山城跡から、主郭部(本丸)の東西で石垣や石階段の一部などが見つかったと発表した。それぞれ土台部分の規模などから天守クラスの大きさの建物跡だったと推定しており、「豊臣政権の権威を世間に誇ろうとしたのではないか」と説明している。

    水口岡山城は、豊臣秀吉が甲賀支配の足がかりにしたとされ、秀吉の重臣中村一氏(かずうじ)が1585(天正13)年、古城山(標高283メートル)に築城。3代目城主の長束正家は関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ、築後15年で廃城となった。その後、徳川家康は水口を直轄地とし、城を徹底的に壊す「破城(はじょう)」にした。

    今回見つかった東西の建物跡の間隔は70~80メートル。東の建物跡からは石垣と柱を支える土台の礎石が見つかり、天守の土台部が北東へ一部張り出しているのが分かった。西側からは石の階段と排水溝とみられる石組み溝が見つかった。

    続きはソースで

    ソース: http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20141113000017
    画像: http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2014/11/20141113085346okayamajo.jpg
     (本丸西側の建物跡から見つかった石組み溝(手前)と石階段=甲賀市水口町水口・水口岡山城跡)

    関連ソース:
    水口岡山城 天守台2つか | 読売新聞
    http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20141112-OYTNT50554.html

    引用元: 【史跡】秀吉の権威示す?本丸東西に建物跡 滋賀・水口岡山城跡 [14/11/13]

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    1: 2012/01/25(水) 23:19:51.95 .net
    息子の長政に何か吹き込んでおくべきだったと思うが

    引用元: 黒田如水はどうやったら天下をとれたのか?

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    引用ここから

    1: Twilight Sparkle ★@\(^o^)/ 2014/06/27(金) 23:24:15.42 ID:???0.net
    2014.6.27 02:04
    http://sankei.jp.msn.com/region/news/140627/tcg14062702040001-n1.htm

     関ケ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を徳川家康に決意させる要因となったといわれる上杉家の家老、直江兼続の「直江状」の写しで大田原市内の旧家が保存してきた書状が、那須与一伝承館(同市南金丸)で開かれる企画展「戦国大名の書状」(28日~8月24日)で初めて公開される。オリジナルに最も近い写しとされ、上杉家と徳川家の緊張状態を今に伝える貴重な史料だ。(伊沢利幸)

     同館によると、初公開される「直江状」の写しは縦36センチ、横442・5センチ。15カ条のうち初めの5カ条の部分は破れて失われており、残り10カ条が読み取れる。江戸中期の写しとみられ、当初、上杉家重臣、千坂(ちさか)家が所蔵していた。千坂家の子孫は大正時代に西那須野村(現那須塩原市)で製紙会社を経営していたが、社長を辞任して同村を離れる際、友人だった大田原の旧家の当主に譲った。この旧家が代々、所蔵していた貴重な書状でオリジナルに最も近い写しである可能性も高い。昭和11年には東大史料編纂(へんさん)室が調査している。

    (続きはリンク先で)
    引用ここまで

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    引用元: 【歴史】 関ケ原の戦いの端緒「直江状」を初公開 栃木 [産経新聞]

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